a curator's memorandum

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論文マラソン157 桑原規子「恩地孝四郎の《『氷島』の著者・萩原朔太郎像》をめぐって―占領期における欧米人コレクターと創作版画の国際的評価」

桑原規子「恩地孝四郎の《『氷島』の著者・萩原朔太郎像》をめぐって―占領期における欧米人コレクターと創作版画の国際的評価」(『藝叢』23号、2006年)。

 

はじめに

1章 《『氷島』の著者・萩原朔太郎像》について

2章 占領期における欧米人コレクターと戦後の《萩原朔太郎像》

3章 戦後日本版画の海外紹介と国際的評価について

おわりに

 

〇戦前の創作版画評価に比べ、戦後は欧米人による人気、評価の高まりが生じる。重要な作品が海外に渡ったこともあり、戦後の国際的評価に対する研究が遅れているままである。ここでは恩地孝四郎の《『氷島』の著者・萩原朔太郎像》を考察を行っていく。

〇《萩原朔太郎像》は戦前に制作されるが、戦後に欧米人の求めによって本人による「自摺り」、「関野摺り」「平井摺り」が摺り増しされている。

〇本作は恩地が交流をもった萩原朔太郎肖像画である。生前に写真も活用してデッサンを行い、その後版画として完成させた可能性がある。

〇悲痛な表情をした朔太郎像を、恩地は当初2部しか摺っていなかった。しかし、浮世絵とは異なる人物画であること、戦時中の苦悩や心情を現していることが欧米人コレクターの評判を呼んだ。

〇欧米人コレクターとしてはとりわけハートネット、スタットラー、ミッチェナーが特筆される。ハートネットは陸軍教育本部に配属され、日本に滞在し、日本の作家による展覧会や音楽会の企画を立てるのが仕事であった。自らは書物を著すことはなかったが、日本現代版画を英語圏ではじめて紹介した。

〇朔太郎像をハートネットは求め、1948年時点では2点しかなかったが、恩地はさらに6点摺る。その後は断り、信頼する関野準一郎が20部摺った。これらもすべて売却される。また1955年恩地の没後、遺族の依頼によって浮世絵の摺師平井孝一によるエディションが制作された。