a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン189 金英那「二つの伝統―1970年代のモノクローム・アートと1980年代の「民衆」美術」

金英那「二つの伝統―1970年代のモノクローム・アートと1980年代の「民衆」美術」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

〇1960年代以降の韓国では「伝統」の問題が本格的に論じられるようになる。一方で、戦後の西洋の美術運動であるアンフォルメルや抽象表現主義が若手アーティストに好意的に受け取られる。一方では「伝統的」である水墨画家もその影響を受ける。

〇その背景には1960年代にパク・チョンヒ大統領が政権を握り、民族国家を提唱する動きが高まったからといえよう。韓国文化のアイデンティティを模索する中で、1970年代の「モノクローム・アート」と1980年代の「民衆」美術はそれぞれのやり方で「伝統」の在り方を検討し解釈してきた運動といえる。

モノクローム・アートあるいは単色絵画とよばれたこの運動は、パク・ソボらに代表される。彼らの共通点としては、第一にほとんどが単色の使用であるということ、第二にカンヴァスの平坦な表面を強調していること、第三に東アジアの精神性と自然観が繰り返し主張されていることである。

〇特に第三の「東アジアの精神性と自然観」という点でいうと、作家たちは虚無への信仰、自らと作品が一体化するという自然との合一を語った。これは道教という東アジアの伝統に基づくもので、人間と自然の調和こそが東アジアの風景画、山水画の伝統的な目標だと信じていた。

〇1980年代になると「民衆」美術が盛んとなる。これは西洋の影響を排除し、韓国独自の文化を活性化しようとするもので、文学、仮面舞踊やパンソリのような野外パフォーマンスなどのジャンルから始まった。

〇その特徴は第一に、大衆が容易に理解できる主題と写実的な様式を復活させたこと、第二に民族主義の伝統に基づく民画、仏教美術、版画や風俗画に関心をもったこと、第三に憧れのユートピアとして農民文化を受け入れたことである。

モノクローム・アートと民衆美術の両者は、韓国特有の伝統と感情を引き出そうと試みた。方向性は異なるもののともに「伝統」の再検討、解釈の現れだといえよう。

 

 

 

論文マラソン188 金英那「東洋のリリシズムを求めて―金煥基の作品」

金英那「東洋のリリシズムを求めて―金煥基の作品」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

〇韓国のモダニスト画家・金煥基(キム・ファンギ)。彼は1930年代、初期抽象芸術の先駆者であった。1950年代後半から亡くなる1974年までフランスや米国に居住しており、国際的に活躍していた数少ない韓国のアーティストであった。

〇19歳のとき、東京の錦城高等学校に転入、卒業し、1933から36年まで日芸に在籍した。その頃の作品はほとんど残っていないが、大学では木村荘八と長島重二郎が西洋画の教授を務め、柳宗悦が美術史を教えていた。

〇1935年頃からキムは教師以外の芸術家たち、村井正誠、津田正周、オノサト・トシノブらとも交流していた。彼らは1937年の自由美術家協会に参加していた。キムとほかの文化学院の韓国人学生らもこの展覧会に加わっていた。

〇キムはいかにして洋画の素材と技法でアジア的アイデンティティを表現できるかという問いに関心を抱いていた。最終的にはアジア的様式である水墨画の世界へと行きついた。

 

論文マラソン187 福のり子、平野智紀、北野諒『これからどう進む?対話型鑑賞のこれまでとこれから』

目次

1章 逢坂恵理子・福のり子「対話型鑑賞の黎明期:アメリカ→ドイツ→日本」

2章 原泉「美術館と対話型鑑賞」

3章 北野諒「学校教育と対話型鑑賞」

4章 北野諒「科学/医療と対話型鑑賞」

5章 平野智紀「ビジネスパーソンと対話型鑑賞」

6章 森功次「対話型鑑賞の功罪:美的知覚の観点から」

7章 伊達隆洋「対話型鑑賞ファシリテーターの育成と課題」

8章 北野諒・平野智紀「対話型鑑賞の今後」

 

MoMAで始まった対話型鑑賞が日本に上陸して30年。それを記念して2022年8月に東京国立博物館で「VTC/VTS日本上陸30周年記念フォーラム2022 対話型鑑賞のこれまでとこれから」が開催された。本書はフォーラムの記録集であり、これからに向けてフォーラム後に行われた考察である。

〇日本の黎明期である1991年の最初のきっかけ(福さんと逢坂さんの出会い)などは貴重な記録である。

〇対話型鑑賞が美術館だけではなく、学校、医療、ビジネスなど様々な場に展開されており、その差異や目的の違いなどもそれぞれの章で語られる。

〇対話型鑑賞の功罪、という点では誤った対話型鑑賞の目的、すなわち「作品は自由に見ていい」だったり、ファシリテーターが最初に注意事項を促すなどをしないと、ただ話して気持ちよくすべての意見が受け入れられることになると、本当に行う意味があるのか、という点について、実践してきた森氏の意見が示唆的である。

 

 

論文マラソン186 金英那「韓国の「アンフォルメル」運動」

金英那「韓国の「アンフォルメル」運動」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

アンフォルメルが韓国の美術界を席巻したのは1957-58年であり、ヨーロッパやアメリカより10年ほど、日本より1-2年遅れていた。

〇韓国のアンフォルメル運動は1965年頃に終焉を迎え、韓国の洋画はオプ・アートやネオ・ダダへと移行しはじめた。画家たちのほとんどはこの様式で制作し続けることはなかった。

アンフォルメルが韓国にもたらしたものは、アカデミズムに支配されたり、西洋のフォーヴィスムキュビスムの二番煎じになることを免れ、実験的精神と芸術制作のプロセスこそが重要だとみなすコンテンポラリー・アートへと足を踏み入れた点にある。

 

 

論文マラソン185 金英那「解放後の韓国美術序説」

金英那「解放後の韓国美術序説」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

〇戦後の韓国のアートシーンではまずモノクローム水墨画が挙げられる。彩色の水墨画は近代日本画を連想させたからである。

〇1950年代後半には抽象美術運動が勃興した。戦前世代の作家たちは、キュビスムフォーヴィスムを融合することを選んだが、若い世代はこの折衷に満足せず、変革を推し進めこれが韓国モダニズムの転換点となった。

〇そうした動きとしてアンフォルメルが挙げられる。日本の介在なしに同時代のヨーロッパとアメリカの潮流に直接かかわった最初の世代であった。

〇1960年代にはアメリカで起こったさまざまな芸術運動が次々に導入された。たとえばハード・エッジ、オプ・アート、ハプニング、コンセプチュアル・アートである。ただし、ポップ・アートが韓国ではほとんど展開しなかった。芸術家は抽象芸術に目を向けており、またポップ・アートのような豊かな消費社会は無縁であった。

〇1980年代になると民衆美術が文学から始まり、美術にも広がった。これはこの10年間の絶え間ない政治的混迷に根差している。民衆美術は、芸術は何よりも大衆の生活を表現すべきという考え方を韓国美術史に持ち込んだ社会批判運動であった。

 

 

論文マラソン184 金英那「韓国近代彫刻」

金英那「韓国近代彫刻」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

〇韓国では、知識階級が水墨画を修養の一つと位置付けたが、彫刻は彫師や鋳物師が造もので芸術の一分野となかなか認められてこなかった。20世紀以降、西洋美術が流入した後も、絵画は風景画や静物画というジャンルが既に韓国にあったのに対し、彫刻は一から学ばなくてはならなかった。

〇韓国近代彫刻の大部分が写実的な胸像、裸体もしくは着衣の人物像であるのは、日本の大学カリキュラムがそこに主眼を置いていたためである。植民地時代の彫刻家は、裸婦ではなく韓服を着た韓国女性を主題とした作品を多く制作した。日本ではこの種の「ネイティブ」な主題はとりわけ木彫で普及した。

〇1945年以降、国立ソウル大学に彫刻科が設置され、1950年に弘益大学校がこれにならった。朝鮮戦争の混乱がようやく落ち着き始めた1950年代に、若い世代の彫刻家たちは大韓民国美術展覧会(国展)に出品しはじめた。また国際的な交流も開始された。

〇1950~60年代に、数多くの戦争の記念碑や歴史的英雄像が都会の公園や街路沿い、大きな建造物の正面に建てられた。これらの作品群を抜きに韓国近代彫刻の歴史を考えることはできない。

〇また1950年代後半には、彫刻の分野でも抽象芸術への大きな関心が見られる。新しい素材が探求され、木、石、石膏、ブロンズに加え、鉄が用いられる。

 

 

 

 

論文マラソン183 金英那「1930年代、東京の韓国前衛グループ」

金英那「1930年代、東京の韓国前衛グループ」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

〇1930年代に東京画壇で活動していた韓国の美術家たちを2つに大別すると、1つは帝展、文展に出品したアカデミックな様式の画家たち、もう1つはヨーロッパ近代美術の影響を受け、官展ではなくより小さな前衛グループを中心に活動した画家たちである。

〇小さな前衛グループとは、特に自由美術家協会、美術文化協会、白蠻会が挙げられる。これら前衛のグループ展に参加した韓国人の作品は、印象主義的な作品ではなく、幾何学的抽象あるいはシュルレアリスムに傾いていた。その活動のほとんどが東京で行われていたということは、韓国にそれらを受け入れる素地がまだなかったといえる。