a curator's memorandum

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論文マラソン140 桑原規子「戦後日本版画の世界進出―占領期から東京国際版画ビエンナーレ創設まで―」

桑原規子「戦後日本版画の世界進出―占領期から東京国際版画ビエンナーレ創設まで―」(『聖徳大学言語文化研究所論叢』16号、2008年)。

 

はじめに

1. 占領期の欧米人コレクターと創作版画

2. 創作版画の海外進出―国際展への参加

3. 「現代日本美術の国際選手」棟方志功

4. 欧米人コレクターの版画普及活動

5. 東京国際版画ビエンナーレの創設

おわりに

 

〇戦後版画史においてこれまであまり触れられていない、占領期の欧米人コレクターと創作版画との関係をふまえ、1950年代および東京国際版画ビエンナーレ創設につながる過程を再検証する。

〇戦後の日本の版画界と深いつながりをもった連合軍の施設は、日比谷のアーニー・パイル劇場と丸の内にあった陸軍教育本部(アーミー・エデュケーション・センター)である。前者は進駐軍兵士専用の劇場として、後者は兵士を教育する機関として、日本理解のため展覧会や音楽会の企画を行っていた。またそこでは美術の素養のある進駐軍将校が集められていた。

〇日本の創作版画に注目したのは、これら施設に配属された欧米人であり、その中のひとりエルンスト・ハッカーは恩地幸四郎に注目する。陸軍教育本部に勤めるウィリアム・ハートネットも恩地の展示を行い、自身もコレクションをしてアメリカに持ち帰る。

〇またハートネットと陸軍教育本部主催の企画に、浮世絵研究の第一人者藤懸静也や後に東京国際版画ビエンナーレの実行委員となる山田智三郎が深くかかわっている。

〇1951年戦後初めての国際展参加となった第1回サンパウロビエンナーレでは駒井哲郎、斎藤清が受賞。1951~1957年の東京国際版画ビエンナーレまで、国際文化振興会が窓口となった国際展の出品作家、受賞作家をみると同じメンバーが重複していることがわかる。特に斎藤清棟方志功の頻度が高い。これは、「欧米人に非常に人気が高い二人」であることを理解し、海外に向けて発信する意図を強くもった恩地幸四郎の意見が反映された結果である。

〇1950年代に高揚する版画ブームの背景には、欧米人コレクターの存在、そして戦前から版画家たちが取り組んできた地道な海外進出のための活動がある。