a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン108 池上裕子「世界美術史の見地から戦後アメリカ美術の台頭を考える」

池上裕子「世界美術史の見地から戦後アメリカ美術の台頭を考える」(『美術史論集』10号、神戸大学美術史研究会、2010年2月)。

 

はじめに―「アメリカ」の両義性

1. ラウシェンバーグと「世界美術史」

2. トランスナショナルな前衛美術のネットワーク

(1)ニューヨーク(2)パリ(3)ヴェネツィア(4)ストックホルム(5)東京

3. 「世界の」アーティストから「アメリカの」アーティストへ

結びに代えて

 

第二次世界大戦以降、国際美術シーンの中心地がパリからニューヨークへ移行した。それは1964年のヴェネツィアビエンナーレロバート・ラウシェンバーグアメリカ人として初めて大賞を受賞したことで決定的になる。これは戦後、定説ともいえる言説となった。

〇しかし、近年アメリカの文化システムの特異性は、民間や個人が政府の方針から独立して多様な展開をする点にあると論じられている。特にネオダダやポップと呼ばれるアメリカ的なイメージを扱った美術は、その地域のアメリカ文化に対する姿勢にその受容が左右され、アメリカ国内・国外で大きく異なる受容を形成することも多い。

〇ここではこうしたアメリカ的イメージの両義性を念頭におき、ラウシェンバーグの国際的な制作活動を考察し、アメリカ美術の台頭について論じる。

ラウシェンバーグの国際進出は1961年にパリの個展で高い評価を得たことから始まり、ストックホルムアムステルダムでの活動など抽象表現主義の作家たちがヨーロッパと距離を置いたのとは逆に、ヨーロッパの美術界との関係構築から始まった。

〇さらに1964年にマース・カニングハム舞踏団の世界公演に美術監督として参加し、半年にわたって14か国30都市を訪れ、その世界ツアー中に現地の美術界と交流をもった。結果として、国際化が急速に進んだ1960年代の美術界において重要な触媒として機能した。

〇当時は冷戦中であり、ヴェネツィアビエンナーレに東側陣営の国はほとんど参加していない。カニングハムの世界ツアーも東の都市は30の内4つだけであった。したがって国際美術シーンにおけるアメリカの台頭とは、まず冷戦時における西側諸国でおきた現象である。この現象においてラウシェンバーグは様々な地域の美術コミュニティと接触するコスモポリタンでありつつ、そのヴィジョンは結果的にアメリカ美術の覇権確立につながっていった。

〇ネオダダやポップを売り出して成功を収めた画商はレオ・キャステリである。彼の最大の功績は新しい美術を流通させるためのシステムを確立した点にある。それは、売り出す画商、コレクター、批評家、美術館館長という四者がチームで協働し、新しい美術に対する信用を高め、効果的に市場に売り出すことができるのである。

〇キャステリがニューヨークで確立したモデルをパリで実践したのが、彼の前妻イリアナ・ソナベンドである。ソナベンドはパリで画廊をオープンしていたが、もともとヨーロッパで展開したいと考えていたキャステリはソナベンドを全面的にサポートする。こうしてソナベンドは63-64年に集中的にパリでアメリカ美術の展覧会を開催した。また彼女は独自のネットワークで四者による「チーム」をつくり、パリには有力な現代美術コレクターがいなかったため、他国へも事業を展開する。ソナベンドの活動がラウシェンバーグのヨーロッパでの名声、ひいてはビエンナーレ大賞への布石を打っていたのである。

〇戦後アメリカ美術の台頭とラウシェンバーグの国際的名声の確立は様々な外部からの働きかけがあって実現した。しかし世界ツアーから戻ったラウシェンバーグの評価は必ずしも高くはなかった。その後、国外からの名声が逆輸入されることで彼の評判は再評価される。

〇1965年末にMOMAで「ダンテ・ドローイング」の全シリーズを発表する。この作品はヨーロッパを巡回してきたが、各地でとりわけイタリアで絶賛を受ける。作品の質の高さはもちろんのこと、ダンテが『地獄篇』で当時のイタリアを寓意化してみせたように、ラウシェンバーグの作品も現代アメリカを寓意した表象だと受け止めたからである。

〇国際美術シーンにおける戦後アメリカ美術の台頭は、外部からの働きかけなくしては成立しなかった。様々な地域の美術界は、世界美術の中心的な存在となるアメリカ美術と適切な距離ををとりながら、いかに独自の存在を打ち出していくかという課題に向き合っていく。