a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン139 和田七洋「1960年代初頭における横尾忠則ポスター作品の変化に関する研究」

和田七洋「1960年代初頭における横尾忠則ポスター作品の変化に関する研究」(『鹿児島大学教育学部研究紀要』68号、2016年度)。

 

1. はじめに

2. 日本デザインセンターと市松模様

3. 京都労音ポスター『東京コラリアーズクール・プティ』分析

4. 市松模様の放棄、プッシュピン・スタジオ、独立

5. 京都労音ポスター『ペギー葉山 春日八郎艶歌を歌う』分析

6. おわりに

 

横尾忠則(1936-)は何度もスタイルを変えて制作してきた作家だが、1950年代後期から60年代初頭におけるスタイルの変化を作品を通じて分析。

〇1959年に神戸新聞を退職、ナショナル宣伝研究所に勤めていた横尾は、田中一光に懇願し、当時日本で有名だったデザイナーたちを招集した日本デザインセンターに入社。国際様式であったモダニズムデザインから脱却し、最初の独自の画風として市松模様の使用が挙げられる。

〇前衛美術に強い関心をもつ横尾は、デザインセンターを退職。原田維夫宇野亞喜良とスタジオ・イルフィルを立ち上げる。自分のスタイルを前面に押し出すイラストレーションを用いたグラフィックの理想的な形を、アメリカの「プッシュ・ピン・スタジオ」に見て、イルフィルの参考にした。

〇こうして市松模様ともまた違う、土着的イメージを用いた作風へと変化する。革新的なイメージだが、クライアントからは評判を得られず、前衛芸術家たちに高く評価されていく。