a curator's memorandum

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論文マラソン92 塚田美香子「戦前の日本におけるピカソの受容―様式変遷で見るピカソのイメージ」

塚田美香子「戦前の日本におけるピカソの受容―様式変遷で見るピカソのイメージ」(『スペイン・ラテンアメリカ美術史研究』21、2020年4月)。

 

はじめに

1. 1910年代:ピカソと新美術運動の同時的受容

2. 1920年代:浸透するピカソの古典主義様式と離隔するキュビスム

3. 1930年代:ピカソの古典主義様式の流行と新たな様式展開

結論

 

〇日本におけるピカソ受容の研究は、キュビスムの受容における文脈で論じられるものが多い。ここではピカソが短期間に大胆にその様式を変化させていったことを勘案して、1930年代前半までを対象として、ピカソ受容の新たな一面を浮かび上がらせる。

〇1910年代の日本美術界は、西洋の新しい美術動向に目が向けられて、ポスト印象派以降のフォーヴィスム未来派表現主義という前衛運動と同時にキュビスムが紹介される。当時は、西洋の実作品がなかったので、画家や批評家は白黒の複製図版のみでしか体験できなかった。

1920年代は、渡欧した画家たちが伝える情報を通して、ピカソ芸術の全貌が明らかになっていく。ピカソは1914年頃から古典的手法に変更、アングルにならったようなデッサンを描き「古典回帰」を表明したが、日本にそれが伝えられたのは1920年代。

〇1923年からほぼ毎年、日本国内ではピカソが出品される展覧会が開催される。ピカソの初期、キュビスム、古典主義時代の油彩や素描など。分析的キュビスムの作品は出品されていないようである。

1920年代に渡欧した画家でピカソキュビスムを支持した画家は何人もいるが、アンドレ・ロートの研究所へ通った前田寛治(1922-1925留学)や伊原宇三郎の人物画には、ドランの影響もみられるが、ピカソの古典主義時代の豊満でたくましい四肢をした表現に近い。

〇海外文献に依拠した中川紀元、一氏義良、神原泰の著作によって1920年代前半までにピカソ芸術の全貌が明白になり、同時代のピカソの創作姿勢に接近した。

〇1930年代前半は、独立美術協会がフォーヴィスムシュルレアリスムなどを展開、キュビスムは過去の様式になっていく。また日本の美術界はシュルレアリスム抽象絵画へ移行し、キュビスムは終焉へと向かう。

〇その一方で、ピカソの古典主義様式の受容は高まる。

〇1934年、「福島コレクション」が有楽町の日本劇場で開催され、ピカソの古典主義時代の4点が含まれている。

ピカソの古典主義時代の作風は帝展系の画家への影響も著しく、当時の新進である中野和高、鈴木千久馬、伊原宇三郎などが挙げられる。こうした状況下で藤島武二ピカソマチスらの当時評判のモダンアートに理解を示す。この考え方は、師弟関係にあった猪熊弦一郎佐藤敬らがのちに結成する新制作派協会に影響を与えた。

〇1930年までの約30年の間に、日本におけるピカソに対する印象は一転し、芸術家たちの目標になっている。キュビスムは終焉したが、ピカソの古典主義様式は受容されていった。画家たちがピカソの古典主義様式を「新しい写実」の方向性の一つとして注目したからである。