a curator's memorandum

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論文マラソン132 伊村靖子「東野芳明の「反芸術」概念の展開」

伊村靖子「東野芳明の「反芸術」概念の展開」(『京都市立芸術大学美術学部研究紀要』56号、2012年)。

 

はじめに

「反芸術」の定義をめぐる経緯

シンポジウム「『反芸術』、是か非か」(1964年1月30日)

東野芳明によるパフォーマンスの意義

宮川淳との論争(『美術手帖』1964年4月ー7月)

高階秀爾との論争(『芸術生活』1964年4月ー6月)

東野芳明による「反芸術」の展開

 

〇1960年代を通じて東野芳明が意図した「反芸術」の試みについていくつかの「反芸術」論争の分析を通じて行う。

〇「反芸術」という言葉は1960年3月2日読売新聞夕刊の第12回読売アンデパンダン展評で、東野が工藤哲巳の《増殖性連鎖反応B》を「ガラクタの反芸術」と名付けたのがきっかけであり、「反素材」という意味であったと本人が後に述べている。今まで芸術の素材とみなされなかった「卑俗な物体」が用いられ「ガラクタの廃墟から根生えた強烈な観念の世界」が、反画壇ではなく「自然な形で」あらわれ、「卑俗な物体」が「明快な形而上学の世界に転化されている」点に、新世代の表現を見出している。

〇1962年に入ると「反芸術」の定義は変質し、ラウシェンバーグジャスパー・ジョーンズの名を挙げ、国際的同時性をもつ概念に変貌したと考えられる。

〇東野にとっての「反芸術」のひとつの帰結は、デュシャンのグリーン・ボックス、荒川のダイアグラムを経て、「設計図」という概念を通じて「発注芸術」へと発展していくと考えられる。

〇東野は「反芸術」の定義を発展させていくと同時に、ポップ・アートが提起したもうひとつの問題を意識しはじめた。彼にとっての「反芸術」は、シンポジウムの討論者に美術以外のジャンルから参加者を求めたり、「反ジャンル」「反自己表現、反個性」「コミュニケーション、観客の参加の可能性」への方向性を内包していた。

〇さらに宮川との論争を通じて「不在の芸術はいかにして存在可能か」という問いに発展。デュシャンの《大ガラス》やジョーンズ、荒川のダイアグラムを挙げてその特質は「強烈な観念の状態」である。