a curator's memorandum

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論文マラソン133 池上裕子「巴里のアメリカ人 イリアナ・ソナベンド画廊の市場戦略」

池上裕子「巴里のアメリカ人 イリアナ・ソナベンド画廊の市場戦略」(『西洋美術研究』14号、2008年9月)。

 

1 戦後フランスにおけるアメリカ美術の紹介

2 アンフォルメルと抽象表現主義

3 ヌーヴォー・レアリスムとネオダダ、ポップ

4 イリアナ・ソナベンド画廊の市場戦略

結び

 

〇60年代のパリにおけるイリアナ・ソナベンド画廊の活動を取り上げ、戦後アメリカ美術における国際市場進出について考察する。

第二次世界大戦後のフランスでアメリカ美術はどのように紹介されたのか。第一段階としてアメリカ大使館の文化担当官のダルシア・スパイヤーが50年代にMoMAと協働して幅広くアメリカ美術を紹介した。第二段階としてソナベンドが前夫キャステリの協力を得て、60年代前半にネオダダとポップの展覧会を開催した。

〇50年代にはアンフォルメルと抽象表現主義が、60年代にはヌーヴォー・レアリスムとネオダダ、ポップがそれぞれ国際美術シーンで主導的な立場を争い、より効率的な市場戦略を打ち出したアメリカが勝利した。

〇ダルシア・スパイヤーとアメリカ政府の思惑は必ずしも一致していなかった。第二次世界大戦前のアメリカは、知識人のみならず前衛美術家の多くが共産主義的な思想に共鳴しており、MoMAはそうした作家も展覧会でとりあげていたことから、アメリカ政府はMoMAに対する警戒心が強かった。しかしスパイヤーの尽力から徐々にフランスでアメリカ美術のプレゼンスは高まっていった。

〇キャステリの最大の功績は新しい美術を市場に定着させるためのシステムを構築した。すなわち、作品を売り出す「画商」、作品を買う「コレクター」、その美術の重要性を論じる「批評家」、そして作品を公のコレクションに加える「美術館館長」である。それをキャステリは「チーム」と呼んだ

〇キャステリが画商としてジョーンズ、ラウシェンバーグを売り出し、コレクターのロバート・スカルやエミリー・トレメインが作品を購入する。批評家のレオ・スタインバーグが彼らの芸術をポストモダンの幕開けと位置づけ、ユダヤ美術館の館長アラン・ソロモンが彼らの回顧展を開いた。

〇一方、パリには画商も批評家も数多くいたが、伝統的に美術批評は文学者が余技として行っていた。何よりパリはコレクターと作品を購入する美術館が欠けていた。パリがモダン・アートの国際市場を形成した最初の都市となったのは、国内で作品が売れないために国外に市場を求めざるを得なかったのである。

〇ソナベンドはキャステリと離婚後、パリで画廊をオープンする。その後もキャステリとも協力関係を築き、ソナベンドはネオダダ、ポップの展覧会を連続して開催する。またこうした活動のPR、カタログ制作に力を注いだ。そしてヨーロッパにおいて「チーム」を作ることに成功する。すなわちソナベンドがアメリカ美術を売り出し、ミラノのジュゼッペ・パンザやケルンのピーテル・ルードヴィッヒが作品を購入する。そこにミシェル・ラゴンやオットー・ハーンなどアメリカ美術に理解ある批評家がエッセイを書き、フルテンやサンドベルフが大規模な展覧会を開き、コレクションを美術館に入れた。

〇サナベンドはとりわけラウシェンバーグに重点を置いて売り込み、1964年のヴェネツィアビエンナーレでの大賞受賞で、戦後美術の中心地はパリからニューヨークへ移った。

〇しかしサナベンドはパリではほとんど顧客を見つけることはできず、国際美術市場の「アメリカ化」に彼女は「勝利」したが、経済的な成功は1980年にパリの画廊を閉めて、ニューヨークでの取引に専念してからである。