a curator's memorandum

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論文マラソン87 伊村靖子「「色彩と空間」展から大阪万博まで―60年代美術とデザインの接地面」

伊村靖子「「色彩と空間」展から大阪万博まで―60年代美術とデザインの接地面」(『美術フォーラム21』30号、2014年11月)。

 

はじめに

「デザイン」の意義の拡張

美術の「デザイン」化―「色彩と空間」展の構想

美術にとっての「設計」

 

〇美術界においてデザインへの関心が高まる背景として、60年代が戦後復興期にあたり、技術革新の時代にあった点が大きい。

〇50年代半ばより通産省が新産業の育成のため、鉄鋼業、石油化学工業、機械製造工業、電子工業の支援を開始。建築やデザインを通じてその余波は美術界にも問題意識を投げかける。

〇影響は端的には作品への新素材や技術の使用、相次ぐ野外彫刻展の開催などに見られる。

〇実質的には1960年の世界デザイン会議の開催、1964年の東京オリンピックへ向けたグラフィック・デザイナーの活躍、そして1970年の大阪万博を通じて建築家やデザイナーの存在感が高まり、デザインは注目される分野になった。

美術手帖で最初にデザインの特集が組まれたのは1960年7月増刊、1962年の7月には美術出版社が募集した第4回芸術評論の選考基準に新たに「建築・デザイン」の領域が加わる。

〇一方、伝達、コミュニケーションの媒体としてのデザインの意義は東野芳明の論文「物体と幻想」(『現代の絵画4』小学館、1963年12月)により、ポップ・アートの特性を通じて紹介される。

〇1960年代を通じて「美術のデザイン化」に関する議論の展開は、シンポジウム「『反芸術』、是か非か」(1964年)における東野の問題提起、「色彩と空間」展における「発注芸術」の提起(1966年)、「絵画+彫刻+デザイン+建築+写真+音楽」を掲げた「空間から環境へ」展(1966年)にはじまり、1970年の大阪万博と関係の深い環境芸術などに見ることができる。

〇当時の発注芸術が提起した問題をまとめると次の3つである。1.実制作とアイデアを分けて考えること、2.ジャンルの溶解と協働の可能性、3他者性に対する新たな解釈。