a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン116 池上裕子「冷戦の終結と現代美術のグローバル化―ロバート・ラウシェンバーグの国際交流プロジェクト―」

池上裕子「冷戦の終結と現代美術のグローバル化ロバート・ラウシェンバーグの国際交流プロジェクト―」(田中正之編『西洋近代の都市と芸術7 ニューヨーク』竹林舎、2017年)。

 

ROCIの構想と実現への道程

ROCI Chinaの開催

歓迎されるROCI、反発されるROCI

ROCI Cubaでのパフォーマンス

現代美術シーンの多様化に向けて

 

〇東西の文化的な断絶に変化の兆しが見られ始めた冷戦末期において、アメリカが発信する現代美術としてラウシェンバーグは極めて大きな役割を果たしていた。彼はこの時期、大規模な国際交流プロジェクト、Rauschenberg Overseas Culture Interchange、略して「ROCI」を行っていたからである。ラウシェンバーグは、冷戦の終結過程が始まったとされる1985年からソヴィエト連邦が崩壊した1991年にかけて、意識的に東側諸国や専制国家など、彼が「鋭敏な地域(sensitive areas)」と呼んだ場所を選んで滞在し、現地で調達した材料を用いて作品を制作、個展を開催した。

〇ROCI展開催国はメキシコ、チリ、ベネズエラ、中国、チベット、日本、キューバソヴィエト連邦東ドイツ、マレーシアと多岐にわたり、アーティストが個人で行ったプロジェクトとしては前代未聞の規模であった。

〇プロジェクトの総決算としてワシントンDCのナショナルギャラリーで開催した展覧会の評判は高くなかった。いわく、初期作品の高度な前衛性とは比べようもなく、さらに異文化の素材を取り込んだ作品によって無邪気に世界平和を唱えるラウシェンバーグを「美術の帝国主義者」とすら呼んだ。

〇だが、冷戦末期という時代においてROCIは現地では非常に大きな意味をもつものだった。1985年のROCI Chinaは当時政府が推進していた文化開放政策が、熱狂的な西洋文化受容をもたらしており、ROCIは30万人を超える観客数を記録した。

ラウシェンバーグの構想は、1982年に中国を訪れ滞在制作をしたことがきっかけである。アメリカ人の作家が招かれたこと自体、非常に稀であったが現地の美大などで西洋のモダン・アートについて熱心な質問を受けたことから、彼らが外国文化との接触を必要としていることを確信する。

〇当初から平和活動として企図されたROCIは様々な労苦を伴うものであり、このプロジェクトのためにドナルド・サフのようなプロジェクト・ディレクターを就任要請し、ファンド・レイジングからホスト国探し、その国における美術関係者、役人との交渉までほぼ一手に担った。

〇とりわけ資金問題が障壁であり、スポンサー探しにサフは邁進したが、ラウシェンバーグがプロジェクトのコンセプトについて自分の決定権を譲ろうとしなかったため、実際ROCIの開催国決定については、「実施が可能な」地域が選ばれ、そのセレクションはかなり場当たり的であった。

〇「アメリカ」という要素はROCIの功績を評価するにあたって、決定的に重要である。功績は旧東側諸国や発展途上国アメリカ型の現代美術をもたらして、世界の美術シーンを「アメリカ化」したことではなく、むしろ世界各地のアーティストに「移動性」をもたらしたことにあるのではないか。個々の例を挙げれば、中国やソ連キューバのアーティストがアメリカに移住したり相互の交換プログラムも行われた。そしてそれが現代美術シーンにもたした「多様性」という効果である。

〇こうした変革はいずれ起きたことではあろうが、情報に飢えていたROCIホスト国の若いアーティストたちは、実際に現代美術を自分の眼で見る必要があった。つまり冷戦終結後にアートシーンが多様化し、アメリカ美術の中心性が相対的に低下するなかでも、ニューヨークという土地の求心力を確保する働きをしたといえる。