a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン115 塚田美香子「日本におけるピカソの受容と歴史的回顧―影響、批評、収集の軌跡 第一次受容」

塚田美香子「日本におけるピカソの受容と歴史的回顧―影響、批評、収集の軌跡 第一次受容」(『ブリヂストン美術館館報』第55号、2007年12月)。

 

はじめに

Ⅰ. 1900年代―ピカソとの出会い

 1. 1900年パリ万国博覧会

 2. 貞奴の舞台

Ⅱ. 1910年代―ピカソキュビスムの紹介

 1. ピカソの公式紹介―新聞、文芸誌、展覧会

 2. 日本人画家のピカソ解釈

  2.1 パリ留学―斎藤与里石井柏亭梅原龍三郎藤田嗣治、正宗得三郎

  2.2 未渡欧の画家―東郷青児萬鉄五郎、村山槐多

Ⅲ. 1920年代―ピカソの本格的受容の始まり

 1. ピカソ作品の初展示

 2. 日本人コレクターのピカソ蒐集

 3. 当時のピカソ

 4. 日本人画家のピカソ導入

  4.1 パリの日本人画家たち

  4.2 キュビスムの援用

 5. 新興美術運動とピカソの関わり

 

ピカソがフランスを拠点に本格的に活躍し始めた1900年代の初めから第二次世界大戦までを第一次受容とし、ここではそのうち1930年までを対象として考察している。

〇日本とピカソの関係は1900年から始まっているが、ピカソ紹介と作品が日本美術界に浸透するのはその数年後である。

〇1911年にピカソの名は文芸誌『美術新報』をはじめ『早稲田文学』『白樺』などにピカソに触れる文章や図版として紹介されてゆく。きっかけは、この年にパリのサロン・デ・ザンデパンダンにキュビスムが公式な美術運動として認められ、秋のサロン・ドートンヌで話題となって日本でも新聞にニュースが報じられたからである。

〇森田亀之輔の「泰西画界新運動の経過およびキュビスム」(1915年)にはピカソの《マンドリンを持てる女》《マンドリンを持てピアノに依れる女》《ギタアルを弾く人》といったピカソの分析的キュビスムの作品が挿図で紹介されている。ピカソの楽器という画題はどこからくるのだろうかという疑問をもった。

〇1910年代から続くヨーロッパ美術新傾向の紹介と、渡欧した作家たちが伝える情報によって、ピカソ受容が顕著になるのは1920年代である。ようやく海外の画商の協力や日本人コレクターによって、オリジナル作品が輸入され、国内で本格的に展覧会が開催されるようになる。

〇1923年フランス人画商のエルマン・デルニスが企画した第二回仏蘭西現代美術展(上野公園竹之台陳列館)、三越呉服店でのフランス現代水彩画・素描版画展が開催され後者にはピカソの版画「サルタンバンク・シリーズ」《貧しき食事》が展示された。

〇1925年の光風会第12回展には黒木三次伯爵家の蒐集品32点が陳列され、ピカソは2点出品される。

〇松方幸次郎や大原孫三郎のコレクションにはピカソが少ない。対照的に福島繁太郎は数多く収集し、現在のアーティゾン、大原、箱根彫刻の森ひろしま美術館などに国内では現在収蔵されている。

〇神原泰は1925年に著作『ピカソ』を出版し、海外の文献資料をもとに、ピカソの作風の変遷を初期から新古典主義時代に至るまでを論じている。ピカソの作風をキュビスム以前のアフリカ彫刻の影響を受けた時代から1912年頃までをピカシズムと定義した。《腕を組んですわるサルタンバンク》の図版も掲載されている。