a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン70 塚田美香子「日本におけるピカソの受容と歴史的回顧―影響、批評、収集の軌跡」

塚田美香子「日本におけるピカソの受容と歴史的回顧―影響、批評、収集の軌跡」(『館報』第58号、石橋財団ブリヂストン美術館、2010年)。

 

Ⅰ 1950年代―戦後復興期の国内初のピカソ

 1戦時下の日本美術界とピカソの"婦人像”の受容

 2戦後のピカソ訪問

 3戦後のピカソ展―ピカソ・ブームと国内美術館の開館ラッシュ

  3.1ピカソ陶器展

  3.2戦後初のピカソ

  3.3ピカソ展の展評と反響―ピカソ・ブーム

  3.4国内美術館開館とピカソ作品の購入

 4ピカソ論と批評

  4.1「ピカソを乗り越えるということ」について

  4.2ピカソの《三人の踊り子》をめぐって

 5日本美術界の国際化とピカソ

  5.1日本でのキュビスム受容の決着

  5.2東西の出会い―アンフォルメル具体美術協会

  5.3ピカソの平和活動を通して―丸木俊羽仁五郎

  5.4ピカソの影響―アメリカ人と日本人画家の場合

Ⅱ 1960年代―ピカソ回顧展と反芸術

 1日本におけるピカソ展の功績

  1.1ある評論家の活躍

  1.2《ゲルニカ》批評

 2戦後におけるピカソ・イメージ

 31960年代の国内の美術動向

Ⅲ 1970年代―ピカソの死を見つめる

Ⅳ まとめ―その後のピカソ評価

 

〇戦後日本におけるピカソ受容を詳細に論じた論考。戦前からピカソは画風が変遷しても受容されてきた。

〇1950年代は油彩、版画、陶器とピカソの多様な展覧会が開催された。1951年には「ピカソ展」「マティス展」が開催され、集客だけで比較するとマティス展の方が多い。しかし、アーティストや美術関係者への影響という点ではピカソの方が大きかった。一般的にはピカソはやや理解しがたく、当初はマティスと比較すれば広く受け入れられていなかった。

〇陶芸については1949~51年に複数の展覧会が開催される。しかし、大陶芸国である日本ではピカソの陶芸に対する姿勢、窯元への批判も大きかった。いわく陶器ではなく陶画であるという内容である。

〇《ゲルニカ》などの反戦の性格をもつ作品から、ピカソと平和は切り離せないキーワードであった。

ピカソが亡くなった後も日本での展覧会や作品購入は続いた。そして1984年日本初のピカソ美術館が開館する。「箱根彫刻の森美術館」にピカソとマリー=テレーズ・ヴァルテルの娘マヤから188点の陶芸作品が寄贈され、ほかにも戦後の油彩やオブジェ、素描、版画、タピスリーなどを所蔵している。これらが「ピカソ館」のコレクションである。