論文マラソン164 池上裕子「アメリカのスペクタクルー1964年ヴェネツィア・ビエンナーレ考ー」
池上裕子「アメリカのスペクタクルー1964年ヴェネツィア・ビエンナーレ考ー」(『美術史』162号、2007年3月)。
序
1 従来の1964年ビエンナーレ像
2 アラン・ソロモンのアメリカ館戦略
3 グランプリ決定の舞台裏
4 「アンフォルメルを超えて」
結びに代えて
〇これまでの1964年のヴェネツィア・ビエンナーレは、ラウシェンバーグが大賞を受賞したことから、世界のアート・シーンがフランスからアメリカに移ったことを決定づけた歴史的な出来事と評されてきた。
〇しかし、ラウシェンバーグに大賞を受賞させる「アメリカ」の強引ともいえる手法が、国家戦略であったというイデオロギー批判もまた非常に強く浸透している。しかし、今日の実証的な研究においては、アメリカという一枚岩の組織などなく、実態とは異なる点が指摘されている。
〇本論文では、新たな資料に基づきキュレーターのアラン・ソロモンの役割に着目し、新しい64年ビエンナーレ理解を提示する。
〇早くに亡くなったこともあり、ソロモンの業績はあまり顧みられてこなかった。しかし別館の活用、カタログ配布による「勝利宣言」などを行い、近年のビエンナーレの停滞から新風の登場の期待、フランスに勝利させたくない他国の思惑など様々な要素がかみあい、ラウシェンバーグの大賞へと結びついた。
〇海外での評価の高さに反し、アメリカではこのニュースは否定的に受け止められていた。ソロモンも批判され、館長職の解任もあった。しかし、歴史的に振り返ればやはりこの1964年のヴェネツィア・ビエンナーレがアメリカ美術、ひいては美術のグローバル化へと進むきっかけになったことは間違いないといえるだろう。