a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン120 大島徹也「抽象表現主義のニューヨーク」

大島徹也「抽象表現主義のニューヨーク」(田中正之編『西洋近代の都市と芸術7 ニューヨーク』竹林舎、2017年)。

 

1 アート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク

2 連邦美術計画

3 57丁目画廊

4 グリニッチ・ヴィレッジ

5 ニューヨーク近代美術館

結語

 

〇「ニューヨーク・スクール」としての抽象表現主義に着目し、ニューヨークという都市においていかにして生み出されたのか、どのような関係を結んで展開したかを考察する。

〇抽象表現主義者の初期の経歴をみると、「アート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク」(ASL)出身が多い。1920~30年代のニューヨークはそのほか、同都市最古の美術学校「ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン」をはじめ「クーパー・ユニオン」「ニューヨーク美術・応用美術学校」「ニュー・スクール・オブ・デザイン」などいくつかがあった。

〇ASLは「ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン」の体制に反発する一部の同アカデミー生たちが中心となって1875年に設立。入学試験などの課題や入学後の所定のコースがないといった、制度上の自由さが特徴だった。クラスは月単位での登録が可能で、授業料は安く、学生はさまざまなクラスの中から希望するもののみを選んで受講すればよかった。

〇抽象表現主義の形成にとって重要な形成として、アメリ連邦政府による「連邦美術計画」(FAP)が挙げられる。芸術面においてだけではなく、生活面において支えた点で特筆に値する。ポロック、デ・クーニング、ロスコ、ゴットリーブ、ゴーキー、ラインハートらがFAPに従事した経験をもつ。

1920年代以降、57丁目はニューヨークの主要な画廊街である。1930年代、ヴァレンタイン画廊やピエール・マティス画廊、ジュリアン・レヴィ画廊などがあり、彼らによってピカソマティスシュルレアリスムなどが紹介された。そして1940年代になると、57丁目画廊街の新たな幕が開く。1942年にペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊(AoTC)、1945年にはサミュエル・M・クーツ画廊、1946年にはイーガン画廊トベティ・パーソンズ画廊、1948年にはシドニー・ジャニス画廊などがオープンする。これらがASLやFAPを経て頭角を現してきた画家の仕事を取り扱い始める。

〇重要なのはAoTCである。1947年に閉廊するまでポロック、ホフマン、バジオテス、マザウェル、ロスコ、スティルらの個展を行う。とりわけペギーはポロックを高く評価し支援する。

〇AoTCにかわってパーソンズ画廊が拠点となり、ラインハート、ロスコ、ホフマン、スティル、ポロック、ニューマンらの個展が次々と開催された。しかし、パーソンズと画廊の数人の間に軋轢が生じ、ポロックとロスコは金銭的に条件のよいジャニス画廊へ移籍する。またイーガン画廊で個展を行っていたデ・クーニングやフランツ・クラインも加えて扱いだし、1950年代はパーソンズ画廊にかわってイーガンが中心画廊になっていった。

MoMAは抽象表現主義者の芸術を同時代的にどう扱っていただろうか。アルフレッド・H・バー・ジュニアの見識と尽力が大きかったが、MoMAも一枚岩ではなかった。1950年代の第25回ヴェネツィアビエンナーレポロック、デ・クーニング、ゴーキーをバーは送り出した。

〇1940年代に戻すと、第二次世界大戦勃発後、マッタ、モンドリアンブルトンアンドレ・マッソン、マックス・エルンストマルセル・デュシャンらがアメリカに逃れてきた。1942年にはピエール・マティス画廊で「亡命の芸術家たち」が行われ、同年ブルトンデュシャンの企画によって「シュルレアリスムの市民権申請書」展がホワイトロー・リード・マンションで開催される。AoTCは亡命芸術家たちも多く出入りし、同画廊は彼らとアメリカの美術界の人間たちが交流するサロンの役割を果たしていた。