a curator's memorandum

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論文マラソン123 桑原規子「1950年代における日米版画の人的交流―斎藤清・関野準一郎・棟方志功を中心に」

桑原規子「1950年代における日米版画の人的交流―斎藤清・関野準一郎・棟方志功を中心に」(『近代画説』22号、2013年)。

 

はじめに

3人の版画家の渡米

ジョン・ロックフェラー3世夫妻と戦後の日本版画

日本版画家の「相互交流」

1960年代の再渡米とネットワークの構築

おわりにー渡米がもたらしたもの

 

◯創作版画は戦後、駐留した占領軍が大量に蒐集したのはよく知られている。また国際的美術展で日本の版画が次々に受賞した。それに加えてここでは1950年代の日米版画家の交流を戦後アメリカの文化政策を念頭において再検討する。なぜなら斎藤清・関野準一郎・棟方志功はいずれもアメリカ政府や財団から経済的支援を受けていたからである。

◯版画家3人がなぜ選ばれたかは、突出したアメリカ人からの人気が挙げられる。特に棟方は知名度も高く、待遇も特別だった。大枠で見れば3人の巡歴するルートは招聘したアメリカの采配によっていた。

斎藤清の渡米はアジア財団とアメリ国務省、関野と棟方の渡米はジャパンソサイエティから先導され、アメリカで起こった版画ブームはサンフランシスコ講和条約以降の対日文化政策と関わりがあった。特にキーパーソンはジャパンソサイエティ会長、ジョン・ロックフェラー3世である。

◯日米文化交流について、ロックフェラーは3つの基本方針があった。1つは相互主義、2つ目は相互の共同企画、3つ目は政府と民間人の調整と協力である。

ロックフェラー財団とジャパンソサイエティが中心になって進めた日米版画の交流プログラムは1960年代初頭には相応の成果を挙げていた。そして60年代に彼ら3人が再渡米し、美術家および関係者のネットワークは拡大し、強固になっていった。

◯また3人はアメリカの美術学校をめぐり、日本の版画教育の遅れについて繰返し発言していた。1958年東京芸術大学に版画教室が開設され、徐々に体制が整っていった。