a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン169 桑原規子「アーニー・パイル劇場をめぐる芸術家たち」

桑原規子「アーニー・パイル劇場をめぐる芸術家たち」(『研究紀要』18号、聖徳大学紀要編集委員会編、2007年)。

 

はじめに

1 伊藤熹朔の舞台美術

2 アーニー・パイル劇場の美術展示

3 日米美術家の交流

 

〇アーニー・パイル劇場とは1945年12月に連合国軍が東京宝塚劇場を接収、進駐軍兵士専用の娯楽施設として開館した。ここでは日本人芸術家も携わっている。特に芸術顧問では舞踊家・伊藤道郎、舞台美術家・伊藤熹朔が挙げられる。戦前にアメリカ滞在経験があったことが特徴である。

〇劇場ではいくつかのショーが上演されたが、その一つが日本人ダンシング・チームによるものであった。当然日本の芸術顧問はそこに力を入れる。熹朔はアーニー・パイル劇場だけでなく、その他の演劇の仕事を手掛けて高く評価されているが、アーニー・パイル劇場の仕事は生活の糧として欠かせなかったに違いない。

〇また劇場には図書室が併設され、ここでも展覧会が開かれていた。美術顧問は普門暁。展覧会は福沢一郎、米倉寿仁、恩地孝四郎モダニズム系の作家が選ばれ、劇場の展覧会の方針は日本の古い美術ではなく現代美術を見せることだったと考えられる。

〇劇場では芸能顧問、美術顧問という形で日本人美術家を雇っていた。しかしポスターやリーフレットなど広報関係の印刷物は特にグラフィックデザインに精通した進駐軍将兵に携わらせていた。エルンスト・ハッカー、フランク・シャーマンはこの占領期に日本人美術家と直接交流した人物として知られる。いずれも日本の版画に興味を持ち、恩地孝四郎を中心とする版画家たちとの交流をもっていた。

〇版画という点からシャーマンの存在が重要なのは、彼がアメリカの最新印刷技術であるシルクスクリーンを日本の美術家に伝授したことである。