a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン135 関直子「マティスと1940年代の日本」

関直子「マティスと1940年代の日本」(『東京都現代美術館紀要』7号、2001年度)。

 

1. 1940年代の美術雑誌における、素描家としてのマティス

2. 1940年代のマティスの普及

(1)武者小路実篤の役割

(2)文学雑誌メディアー『別冊文芸春秋』の場合

(3)デザインへの影響

 

アンリ・マティス(1869-1954)の活動は1909年に作家自身による画論の翻訳が行われて以来、晩年に至るまでほぼ同時代的に日本のメディアで紹介されてきた。マティスの日本での受容においてはおもに1910年前後のフォーヴィスムとの関連であり、1940年代についてはほとんど論じられることがなかった。マティスの受容がこの時期に転換期を迎えたことをふまえ、当時の美術雑誌の記事、文学者、美術家の役割の検討を通して考察する。

〇1909年に高村光太郎の翻訳により『スバル』にマティスの画論は紹介された。それを柳宗悦が1913年に『白樺』で「革命の画家」と題して「物象と自己と融合し、主客其位置を没したる精神の発作は、即ちマティスの芸術である。そは生命そのものの表現に外ならない」と記したことは明治末から大正期のマティス理解を決定づけた。また斎藤与里にはじまり1930年代まで、マティス紹介の担い手は画家であった。

〇1930年代からマティスへの素描が注目され、雑誌にも特集が組まれる。1940年代前半にマティス関連の記事が減少するのは、フランスの同時代美術の紹介自体が、1940年のパリ占領以降難しくなったことが背景にある。

〇実際、雑誌の統制以後はイタリア・ルネサンスや近世ドイツ美術についての論文が目につくが、フランス美術についてはダダ、シュルレアリスムや抽象以前の20世紀初頭に関しては1945年まで特集が組まれている。1943年になってもロダンやミレー、ドラクロアがとりあげられた。こうした許容されたフランスの古典という文脈において、巨匠たちの素描は戦時下でも推奨されたのではないか。

〇草創期のマティス受容において受け皿となった『白樺』。その紹介者である武者小路の影響、『別冊文芸春秋』でのカットや表紙絵の採用などを通じて、マティスの影響は広範におよんだ。