論文マラソン113 塚田美香子「日本におけるピカソの受容と歴史的回顧―影響、批評、収集の軌跡 第一次受容(続編)」
塚田美香子「日本におけるピカソの受容と歴史的回顧―影響、批評、収集の軌跡 第一次受容(続編)」(『ブリヂストン美術館館報』第56号、2008年12月)。
Ⅰ. 1930年代―日本美術界でのピカソの"レゾン・デートル"
1.1 福島コレクションのピカソ作品
2. 日本の美術画壇へのピカソの影響
2.1 帝展系作家への影響
2.3.1 日本のシュルレアリスム誕生
2.3.2 1932年の二つの展覧会
2.4 日本の新美術団体とピカソ
2.4.2 岡本太郎、長谷川三郎の抽象美術
3.1 1930年代のピカソ論
3.2 日本での《ゲルニカ》批評
Ⅱ. 1940年代―戦時中のピカソ解釈
1. パリにおけるピカソ展評
2. 戦時下の美術統制とピカソ・イメージ
〇パリを拠点にエコール・ド・パリ当時の前衛画家の作品を収集していた福島繁太郎のコレクション83点が、1929年の『美術新論』(4巻2号)に紹介され、ピカソは14点掲載された。その5年後の1934年、「福島コレクション展」が開催され、80点のうち40点が日本初公開だった。ピカソは4点、いずれも新古典主義時代の作品であり、特に《海辺の母子像》が絶賛されている。
〇この時期、特にピカソの傾倒した画家は帝展系の伊原宇三郎である。「帝展の新進 中野和高、鈴木千久馬、伊原宇三郎のピカソ、さて日本は銀座の三越、松屋、松坂屋」と児島善三郎に揶揄されたように、ピカソの新古典主義時代に影響を受けていた。
〇当時は日本のアカデミックな画家たちによるピカソの新古典主義時代の作風の傾倒ぶりは甚だしかったのである。
〇猪熊弦一郎ら新制作派協会のメンバーは、光風会で新興モダニズム勢として鳴らした一団である。当時ピカソに心酔していた猪熊は、ピカソのほかにマティスも連想させる《海と女》やピカソの《ゲルニカ》を想起させる《夜》(1937年)などを制作した。フランスに留学(1938-41)してマティスを訪ねて指導を受けるが、「お前はピカソが好きだろう」と言われてしまう。
〇佐藤敬は猪熊と新制作を立ち上げるが、やはりピカソに傾倒していた。1929年第10回帝展に初入選した《若き男の像》(1929)など一連の肖像画はピカソの新古典主義時代の影響を受けている。
〇新制作のメンバーの多くは藤島武二に東京美術学校で師事していた。藤島は新制作結成以前からピカソやマティス、ドランに理解を示している。また藤島は佐藤敬が編纂した「ピカソの素描集」(『アトリエ』臨時増刊号13巻7号、1936年)にピカソの未発表のデッサンを集めるために関わっている。素描集にはサルタンバンクシリーズなどが収められている。