a curator's memorandum

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論文マラソン127 中嶋泉「ニューヨークと草間彌生―1959年と1989年の批評から見る―」

中嶋泉「ニューヨークと草間彌生―1959年と1989年の批評から見る―」(田中正之編『西洋近代の都市と芸術7 ニューヨーク』竹林舎、2017年)。

 

草間彌生のニューヨークにおける1959年と1989年周辺の批評をとりあげ、彼女の代表作ネット・ペインティングについての記述を比較する。それによって日本人女性のアーティストの評価形成にあたり、ニューヨークの批評言説がどのような働きをしていたのかを突き止めることを目的とする。

〇1959年10月、ニューヨークのブラタ・ギャラリーで草間はネット・ペインティングの大型絵画を初個展で発表する。その初期批評は草間を「ニューヨークの画家」として受け入れようとしている。

〇しかし1960年代を通じて草間はアッサンブラージュインスタレーション、パフォーマンスへ移行していき、ネット・ペインティングの影は薄くなる。また歴史化が進んだ抽象表現主義の文脈に草間が入ることはなく、1973年帰国後はニューヨークのアート・シーンからはほぼ姿を消す。

〇ところが十数年後、1989年ニューヨークの国際現代美術センター(以後CICA)での展覧会の評判は大変高く、批評傾向は大きく変わり、草間の出自、自伝的背景、そして精神病が注目される。ゲストキュレーターは日本戦後美術の紹介者として著名なアレクサンドラ・モンロー。モンローがテキスト執筆にあたって依拠したのは草間の寄稿「我が魂の遍歴と闘い」である。

〇50年代のフォーマリズム的評価と自伝的語りとのギャップは大きかった。ニューヨークのモダニズムは実質的には非白人、女性、非異性愛者がもっとも重要なアーティストとして残ることはなかった。

〇草間がかかわっていたはずの日本の美術界やそこで得た評価、多様な実験的試みが覆い隠され、草間の地位はルイーズ・ブルジョワエヴァ・ヘス、アンディ・ウォーホルらニューヨークのアーティストと等しくなり、日本人やアジアの女性アーティストからは隔離された。

〇1950年代末のフォーマリズム批評は、形式上の価値のみを取り上げ、シアトルや日本時代の制作と断絶させ、作品と作者を脱民俗化、人種化する。1980年代末の多文化主義を意識した批評は、日本での草間の歴史を参照しながらも、苦悩ゆえに世間と隔絶された芸術家という西洋美術の従来の概念にあてはめ、彼女をニューヨークのアーティストに仕立てる。