a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン124 白石美雪「ジョン・ケージと東洋、そして日本」

白石美雪「ジョン・ケージと東洋、そして日本」(田中正之編『西洋近代の都市と芸術7 ニューヨーク』竹林舎、2017年)。

 

1 西海岸の文化的環境の中で

2 ニューヨークにおけるケージと東洋の出会い (1)インド思想

3 ニューヨークにおけるケージと東洋の出会い (2)禅・『易経』・老荘思想

4 日本人が読んだケージ

5 異文化の相互浸透としてのケージ

 

ジョン・ケージは1942年6月にニューヨークに越し、92年に亡くなるまでここを拠点にして活動した。ニューヨークに移住する以前、ケージは東洋の音楽や文化、思想や宗教に関心をもっていたと自ら記した文章はほぼない。

〇ニューヨーク以前は西海岸に暮らしており、周囲には東洋の文化や音楽はあったはずだが、当時のケージの関心はヨーロッパ系の芸術や前衛音楽に向けられていた。

〇比較神話学、比較宗教学の研究者でありインドに深い知識のあるジョゼフ・キャンベルとの交流からケージは様々な知識を得る。特にアジアの諸言語に通じ、特にインドと中国の美学思想に詳しいクーマラスワミを知る。また同時期にインドからやってきた演奏家ギタ・サラバイと出会い、インド音楽、哲学について学ぶ。ケージの東洋思想への傾倒は一種のヨーロッパ近代批判ととらえられる。

〇1950年代になるとインドから、中国や日本へのケージの関心は移り、仏教と『易経』、老荘思想についての言及が増え、作品にも応用される。ケージは生涯にわたって易占いにこだわり、コイン投げをはじめとする手法で偶然性・不確定性の音楽を作り続けていく。

〇1962年、ケージが初めて来日する。ピアニストのデヴィッド・テュードアのほか、ペギー・グッゲンハイム一柳慧オノ・ヨーコが同行、国内で10回の演奏会を行う。この時、日本の新聞ではかなりの報道が行われる。同時期のアメリカと比較すると日本の方が多く、ケージが東洋に関心をもっていたこと結び付けた報道が多かった。

一柳慧はケージの教え子で、ヨーロッパ系のアカデミックな現代音楽の伝統を身に着けた優秀な若手であった。ケージからの影響を受け、1961年に帰国すると図形楽譜による偶然性、不確定性の音楽を手掛け、雅楽や邦楽器を独自の視点でとらえなおして新たな可能性を開いた。

〇ケージの思考は、異なるもののなかに類似性を見つけるところから始まる。そして類似性を見つけるとそれらを一つのものとして把握する。したがってケージの言説は引用された原典の文脈からズレが生じる。「他者の声が絶え間なく挿入」しているケージの思考は、批判するにせよ可能性を探るにせよ、きわめて柔軟な枠組みだったということはできる。