a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン103 増田玲「1977年の中平卓馬」

増田玲「1977年の中平卓馬」(『東京国立近代美術館研究紀要』第24号、2020年)。

 

はじめに

1. 1977年に至る中平の活動の概要

2. 沖縄・奄美・吐噶喇

3. 中上健次と「第三世界論」

4. 『決闘写真論』と「デカラージュ」、そして「街路」

おわりに

 

〇写真家・中平卓馬が昏倒した1977年の前後でどのような方法に進もうとしたかの論点を整理する。

〇沖縄・奄美・吐噶喇を題材にし、すなわち琉球文化と大和文化の接点、見えない境界線の存在を探ろうとしている。そのアイディアは東松照明の影響だと考えられるが、沖縄から東南アジアに至る文化的連続性へと視点をめぐらせた東松に対し、中平は沖縄の北で、琉球文化と大和文化の不連続を探ろうとした。

〇この中平の「大和南限」という視点設定には、対となる「大和北限」、すなわち東北への関心があったはずだという指摘があるが、実際昏倒からの復帰後、中平は東北での撮影を行っている。

〇沖縄への取材と重なるように、中平は小説家・中上健次と1976から77年にかけて『プレイボーイ日本版』の不定期連載のため、香港、マカオシンガポール、スペイン、モロッコへと取材旅行を重ねている。これらは南方であり、スペイン以外は植民地である。これは中上の被差別部落出身であることからくる「路地」への関心の表れであろう。

◯中平自身、学生のときにキューバ革命に強い関心をもち「第三世界論」に惹かれていた。「第三世界論」が展開される場所として、パレスチナ足立正生若松孝二は向かう。しかし沖縄の詩人高良勉パレスチナやアフリカに行かなくても沖縄に全てある、と中平に語ったそうだ。

◯「街路」も重要なキーワードである。昏倒前に発表した写真は「街路あるいはテロルの痕跡」であり、継続中の連載は「街路」であった。注目すべきは前者ではパリとマルセイユのアラブ人街を撮っている点。沖縄への姿勢と同様にフランスの第三世界を撮っているのではないか。

第三世界論、もしくは路地の連載に見られる同時代の社会に浸透する権力に対する批判のような大きな構図と、街路へ戻るという言明のもとどのように写真の実践と結びつけるかが中平の当時の課題であっただろう。