a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン71 田中正之「抽象写真かシュルレアリストか―1920年代後半から30年代におけるマン・レイの日本での紹介をめぐって」

田中正之「抽象写真かシュルレアリストか―1920年代後半から30年代におけるマン・レイの日本での紹介をめぐって」(『美術フォーラム21』第23号、2011年5月)。

 

〇現在の理解とは異なり、1920年代後半から1930年代初頭にマン・レイが紹介された当時、村山知義や仲田定之助らによってカンディンスキーピカソなどと結びつけられた「抽象写真」と論じられていた。

〇またマン・レイが使用していた「レイヨグラム」ではなく「フォトグラム」(モホイ・ナジの言葉)という言葉が使われている。

〇1931年の瀧口修造によるマン・レイ論はこれまでと一線を画し、「レイオグラフィ」と呼びマン・レイの活動をニューヨーク・ダダの頃から論じ始める。またレイヨグラフィはピカソのコラージュの延長にあるととらえるが(コラージュの要素としての光)、こうした見方はブルトンマン・レイ論から学んだものである。

〇身近な諸物(櫛や時計や鎖など)を題材とし、それらが識別可能な点を強調し、物体がもつ無意識の美の発見と夢の具現をマン・レイは目指している、と「抽象」写真ではないことを瀧口は断言する。

〇1930年代後半にシュルレアリスム写真をめぐる議論が深化する中で、マン・レイはその代表格として認識されるようになり、レイヨグラムだけが論じられることもなくなっていった。