a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン114 冨田章「洋画家たちの青春―光風会をめぐる日本近代洋画史の一断面」

冨田章「洋画家たちの青春―光風会をめぐる日本近代洋画史の一断面」(『洋画家たちの青春―白馬会から光風会へ』図録、東京ステーションギャラリー、2014年)。

 

〇光風会が結成されたのは1912(明治45/大正元)年、文展が創設されたのはこの5年前の1907年。この頃の洋画界は太平洋画界と白馬会にほぼ二分されていた。

東京美術学校に西洋画科ができたのは開校から7年後の1896年。教鞭をとったのが同年に明治美術会を脱退して白馬会を立ち上げた黒田清輝、久米桂一郎。さらに藤島武二、岡田三郎助も助教授となり、白馬会洋画研究所で学んだ若い画家たちも入学していった。

文展の第4回があった1911年に白馬会は解散。その翌年、白馬会に出品していた三宅克己、中澤弘光ら7人が光風会を結成する。光風会には、白馬会会員であった黒田、久米、藤島、岡田らの弟子たちが中心に入会した。

〇1912年前後は西洋近代美術受容の転換期にもあたり、同年岸田劉生らが「フュウザン会」を結成、二科会が生まれ、その後も反官展や前衛を前面に押し出した団体が続々と生まれてゆく。

〇こうした中で光風会は、官展を支持するアカデミックな団体としての立場を徐々に強化していったようにみえる。

〇白馬会、文展、さらに東京美術学校で推進された日本洋画のアカデミズムの本質は、すなわち外光表現であった。だがそれは、黒田や久米が伝えた外光表現が純粋な印象主義ではなく、フランスのサロンやアカデミーにおいて正確なデッサンに基づく写実主義と折衷されたもの、つまり学校で教えることが可能で、展覧会において優劣がつけやすい状態であることがいえるだろう。