a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン93 速水豊「遅延とエピデミック―日本におけるダリ受容―」

速水豊「遅延とエピデミック―日本におけるダリ受容―」(『ショック・オブ・ダリ サルバドール・ダリと日本の前衛』図録、三重県立美術館ほか、2021年)。

 

はじめに

1. 最初の出会い

2. 多面的な出現

3. 憚られる存在

4. 認知を加速したもの

5. 日本の絵画環境とダリ

6. 影響拡散の発端

7. 影響のありか

8. エピデミック

おわりに

 

〇1937年6月『アトリエ』に「前衛絵画の研究と批判」という特集が組まれ、その冒頭で紹介されたのはダリであった。ダリは他の画家より遅れてシュルレアリスム運動に参加(1929年)したが、この特集をきっかけに日本では急速に知られるようになる。ダリの絵画が日本で受容されるにあたっては、瀧口修造山中散生、福沢一郎の3人がキーパーソンであった。

〇ダリがパリで注目されるのは1929年。ルイス・ブニュエルと共に「アンダルシアの犬」を撮影、公開して評判を呼び、シュルレアリスム運動に加わり、同年11月にパリで個展を開催、ブルトンが序文を書く。

〇1929年12月に発行された『シュルレアリスム革命』12号に、「アンダルシアの犬」のシナリオとダリの絵画2点が紹介された。まもなく日本にわたり、1930年3月の『詩と詩論』には12号掲載のブルトンシュルレアリスム第2宣言とエリュアールの詩が訳される。また「アンダルシアの犬」についても載り、ダリは映画が先行して日本に伝わる。

〇1930年6月には瀧口修造ブルトンの『シュルレアリスムと絵画』を翻訳、出版するが原著は1928年なのでダリの名はない。

◯1930年からシュルレアリスム運動におけるダリの存在感は高まる。活動が多様であり、最初は映画作家として、次にシュルレアリスムに新機軸をもたらす理論家、そしてオブジェを意義づける運動の理論的主導者でもあった。

◯1931年に福沢一郎がフランスより帰国。エルンストに影響された作品を一挙発表。ダリを知っているはずだが福沢はほとんど言及しなかった。

◯挑発的なフランスのシュルレアリストたちですら、ダリの露骨な性的表現などはスキャンダラスで猥褻ととらえられた。

◯1932年9月、英米圏にダリを広く知らしめたのは雑誌『ディスクォーター』のシュルレアリスム特集号。とりわけダリの書き下ろし論考は論客としてのダリを鮮やかに印象づけた。瀧口もこれを和訳。

シュルレアリスム運動が始まって10年経ち、歴史的に位置づける試みもなされ、ダリの登場は重要な出来事として記述されてゆく。

◯1935年7月にはダリの著作『非合理の征服』刊行。論文と共に図版35点。

◯またダリの認知には、シュルレアリスムの国際的な普及が挙げられる。1936年ロンドンで開催されたシュルレアリスム国際展、ニューヨーク近代美術館で開かれた「幻想芸術、ダダ、シュルレアリスム」展があり、関連書も発行され、日本にも伝わる。

◯この盛り上がりは1937年に瀧口と山中が企画する「海外超現実主義作品展」につながる。

◯ダリの影響が日本で急速に広がった端緒は、新造形美術協会の活動に見られる。理論的メンバーであった瀧口と山中の存在が大きい。また瀧口ら美術評論家の呼びかけで美術家が集まった団体アヴァン・ガルド芸術家クラブも同様である。

◯ダリの影響の急速な広がりの要因の一つは若手画家の台頭である。瀧口いわくなぜダリに彼らが惹きつけられたのかの理由は、「極端な超現実主義的な象徴性が、寸分の隙なく、画面の持続性をもって描写されていること」であり、そこに新しさを感じたからである。

◯また重要なのは瀧口の「極端な超現実主義的な象徴性」という言葉である。これは日本の洋画壇にあった自然主義と異なる寓意的、象徴的表現をもつ古賀春江、福沢一郎の系譜をつぐものである。ただしダリのようなパラノイア的妄想あるいはフロイト的性的観念とは限らない。画家たちそれぞれの切実な思念をダリ的歪曲や変形した形象に託したのである。