a curator's memorandum

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論文マラソン23 後藤新治「近代日本美術史のルオー受容-1908年から1958年まで-(1)」

後藤新治「近代日本美術史のルオー受容-1908年から1958年まで-(1)」(『西南学院大学国際文化論集』第21巻第1号、2006年5月)。

 

はじめに

1 受容のクロノロジー

 1-1第1期 邂逅:誘因と反発(1908・明治41年-1928・昭和3年)

 1-2第2期 評価:認知と屈折(1929・昭和4年-1952・昭和27年)

 

ジョルジュ・ルオー(1871-1958)が日本でどのように受容されていったかを位置づけている。たとえばアンリ・マティス(1869-1954)受容と比較すると、雑誌記事の紹介ではマティスがルオーより16年早く先行、『白樺』にルオーは取り上げられていない。実作品の展観もルオーは10年の遅れをとっている。しかしその後、その差は縮まっていき美術雑誌で特集号が組まれるのはルオーはマティスより2年早く、1958年にルオーが亡くなったときに遺作展が日本で開催される(マティスはない)。こうした評価の逆転が起きていく1930年前後に特に注目している。

受容の第1期<邂逅>は画家・梅原龍三郎(1888-1986)がパリのサロン・ドートンヌでルオー作品と出会った1908年から、コレクターの福島繁太郎(1895-1960)がパリのドゥリュエ画廊で開かれたルオーの個展で水彩画1点を購入した1924年を経て1928年までとしている。第2期<評価>はルオーの初期代表作を含む福島コレクションが日本の美術雑誌で紹介され、ルオー本人が福島家を訪れ親密な交友が始まった1929年から第二次世界大戦をはさんで1952年まで。

本論ではルオー評価が確立した「1930年代」の作品に「日本的なるもの」「東洋的なるもの」を積極的に読み込んでいこうとする傾向が、当時の雑誌記事からみえると述べる。たとえば「仏蘭西の鉄斎」「六法の気韻生動」といった比喩がなされる。他愛のない表現ともいえるが、戦間期1930年代のナショナリズムを鼓舞するようなイデオロギーの影響を被り、ルオーの中に「日本的」「東洋的」なるものを過剰に見出し、自己愛にもにた受容を経験することで、日本においてルオー芸術は特異ともいえる地位を確立していったのではないか、と締めくくっている。