a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン4 飯野正仁「戦時下日本の美術家たち 第4回「通州事件」と朝井閑右衛門」

今日の論文は飯野正仁「戦時下日本の美術家たち 第4回「通州事件」と朝井閑右衛門」『あいだ』125号、2006年5月。

 

戦争と美術のかかわりに焦点を当て、当時の印刷物、定期刊行物から関連記事や図版を探り、実証的に戦時下の美術家を浮かび上がらせる。

ここでは洋画家・朝井閑右衛門をとりあげている。これまでも朝井の戦争画については、原田光「朝井閑右衛門粗描」(『独創傑出の画家 朝井閑右衛門』図録、神奈川県立近代美術館ほか、1986年)、「孤燈をとぼす」(『朝井閑右衛門画集』日動出版部、2000年)、陰里鉄郎「画家 朝井閑右衛門」(同上)で触れられてきたが、実証的に示したのが本論文であろう。

通州事件」を機に朝井が発表した《通州事件》(現存不明)。当時の批評では「時局的意義」を認めながらモチーフの扱いのあざとさも指摘されている。しかし本作は結果として「戦争画のはしり」と目され、続いて1938年10月第2回文展に《生還特務兵》を出品し、「官展のホープ」とみなされる。

またその後も上海に赴き手がけた《楊家宅望楼上の松井最高指揮官》を第1回聖戦美術展(1939年7月)に公開し、第3回文展には《良民救助》を出品している。だが批評文を読む限り朝井のこの「戦争画」は批評家をとまどわせているようだ。それは朝井の表現が大仰なロマンチシズムを感じさせるものだからである。

1940年朝井はふたたび中国へと渡り、取材の結果《黎明へ》を紀元二千六百年奉祝美術展へ出品。

 

1936年、朝井の代表作《丘の上》(神奈川県立近代美術館蔵)以降、朝井は時局に促され、かつ半ば自分の意志で主題性の強い作品を描いてきた。両者は同床異夢の暴走をし始めたが、ともに現実的根拠を欠くものであった。《黎明へ》以降、朝井は戦争と時局を描くのをやめる。軍と朝井との共鳴はつかの間の一過性のものであり、終戦まで日本と中国を往来し、自分の世界にこもったように南画や中国の風景を描き続ける。