a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン60 高松次郎「不在性のために」

高松次郎「不在性のために」(『眼』第8号、おぎくぼ画廊、1966年1月。『世界拡大計画』水声社、2003年に再録)。

美術家・高松次郎(1936-1998)の文章であり、60年代のキーワードでもある「不在」を使用した3つめのテキストである。当時高松は《影》連作を発表しており、高松や荒川修作の作品を念頭に、批評家らによる「影論争」が起きていた最中に書いている。

光田由里の『高松次郎 言葉ともの 日本の現代美術1961-72』(水声社、2011年)の解釈を手がかりに読んでいった。

 

これまでのテキストと同様、高松は現実ではない未来の可能性として「不在」という言葉を使い、さらに影についてこう述べている。

 影を(影だけを)人工的に作ることによって、ぼくはまず、この実体の世界の消却から始めました。(それはあくまでも消却=不在化であって<超越>ではありません。)この世界の中で<完璧性>を追求するために、それは最も素朴でストレートな方法だろうと思います。しかし、そこで問題になるのは、いうまでもなく、この世界そのものが枠になるということです。

さらに「イメージ」についても述べている。

 当面の問題は、不在のもつより純粋な緊張感を侵していく知性と想像力の弾劾です。特に我々のたくましい想像力が強力な接着剤のようにあらゆる事物にベタベタと付着してできる<イメージ>は、最も注意を要するゲリラです。

ここでは「絵画」や「イメージ」という言葉は使われず、高松自身は《影》によって絵画やイメージをつくっているのではない、という静かな表明であると読み取れる。