a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン182 金英那「李仁星の「郷土色」 民族主義、あるいは植民地主義」

金英那「李仁星の「郷土色」 民族主義、あるいは植民地主義」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

〇1910年代に韓国に西洋美術運動が紹介されてから、そのスタイルを画家たちは取り入れてきた。しかし1920年代後半になると、画家と評論家の間に韓国美術の独自性とは何かを定義しようとする運動がおこる。ここで出てきた言葉が「郷土色」である。

〇たとえば画家で美術評論家でもあったシム・ヨンソプはアジアと西洋文化間にある根本的な差異を自然に対する態度に見てとり、人間が自然との調和の中で生きる「農郷」の理念こそがアジア的であるとみなした。西洋の画家ではアンリ・ルソー、アンリ・マチス、ポール・ゴーギャンがアジアの理想に近い存在とみなされたが、ゴーギャンやルソーの作品がプリミティヴィズムへのノスタルジーを反映している。

〇シムだけが汎アジア主義を唱えていたわけではなく、アジアはアジア人の文化を信奉すべきというイデオロギーは日本の汎アジア主義に影響を受けていると考えられる。

〇定義にはそれぞれ相違があるが「郷土色」の絵画が韓国の気候、四季、自然、そして農村生活の描写であるといえる。朝鮮美術展の審査員の日本人も出品作に「郷土色」を求めた。日本はほかにも台湾の台展や、満展においても「郷土色」を求めている。このように日本は自分とその植民地との違いを強調しようとしたのである。

〇韓国の画家たちにとって「郷土色」は、植民地化の状況において民族主義を主張できる方法であった。しかし自らの文化論が欠けていたため、鮮展で公の評価を求めた李仁星のような韓国の画家たちは、日本人の抱く韓国のイメージに無意識に翻弄された。

 

 

論文マラソン181 金英那「ミレーの農民のイメージ アジアでの受容のされかた」

金英那「ミレーの農民のイメージ アジアでの受容のされかた」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

ミレー神話

東アジアにおけるミレーの紹介と受容

 

〇韓国におけるミレーの紹介は、19世紀後半以降の布教活動を行った米国の伝道師、そして新しい西洋文化の仲介者であった日本を通じての紹介が考えられる。韓国の知識層は広く日本の本や雑誌を読んでおり、ミレーを知る機会が多かったと推測できる。

〇農民の主題としては視覚芸術に比べて文学の方が圧倒的に多い。またミレーは一般大衆には人気があったが、韓国美術にはそれほど影響を与えていないといえる。それはおそらく、ミレーの名が韓国で知られたとき、既に韓国の美術界ではモダニズム印象主義、ポスト印象主義表現主義の潮流が入ってきたからといえるだろう。

〇ミレーの影響が消えた1980年代に、民衆美術の画家、イム・オクサンは農民の現実に焦点を当てた。

〇ミレー神話といえる物語が広く韓国で知られたとき、韓国の教育制度は1960年代でも日本からの影響を受けていた。金の推測では、ミレーの物語(おそらく日米からの影響)が教科書に取り入れられたのは、韓国の全人口の半分以上がまだ田舎で生活しており、これによって農村社会に大きな関心を呼び起こすことができたからではないか。

 

 

論文マラソン180 金英那「論争のモダニティ 「新しい女性」と「モダン・ガール」の表象」

金英那「論争のモダニティ 「新しい女性」と「モダン・ガール」の表象」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

「新しい女性」とはだれのことなのか?

ハイ・アートにおける「新しい女性」

マス・メディアにおける「新しい女性」

 

〇「新しい女性」という言葉が韓国で使用されたのは1910年代のことである。様々な意味があるが、その概念は日本と西洋を経由して導入される。第一は海外に留学、帰国したリーダー的存在、第二に高等女学校を卒業した職業婦人、第三に高等女学校の卒業後、主婦になった者、第四は読み書きのできる女性労働者である。

〇画家として最も注目を集めた女性はナ・ヘソクである。彼女は西洋式に絵を描き、また新しい性道徳の主張と性の平等の信念によっても、後に登場するラディカルなフェミニストの先駆者となった。

〇画題としての「新しい女性」像は多いが、その理由は韓国のアートシーンは1910年代に押し寄せた西洋絵画に強く影響され、画家たちが刺激を受けたのは女性たちの日常生活の姿を好んだ印象主義者たちの作品だったからである。第二の理由は日本画、特に美人画が植民地時代に影響力を増したことによる。

〇一方、新しい女性のイメージを広める重要な役割を果たしたのは新聞・雑誌の挿絵、広告、漫画などのジャンルであった。これらのジャンルではハイ・アートとは対照的に街の女性のイメージに焦点を当てている。

 

 

論文マラソン179 金英那「西洋との最初の出会い 万国博覧会での韓国の展示物」

金英那「西洋との最初の出会い 万国博覧会での韓国の展示物」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

コロンブス世界博覧会(シカゴ、1893年)と東アジア諸国

コロンブス世界博覧会(シカゴ、1893年)での韓国の展示

万国博覧会(パリ、1900年)での韓国の展示

 

1893年コロンブス世界博覧会において、東アジア諸国では日本が最も注目を集めた。1862年の万博から日本は自主的に博覧会に参加し始め、費用を出し、優れたパビリオンを建て、洗練された展示を行い、アメリカの観客から高い評価を引き出した。

〇20世紀初めまで日本に対する好意的な評価は続いた。すると日本は台湾、韓国の日本総督府南満州鉄道会社、関東州政府を含む植民地支配機構に展示物を送るように命じる。日本は海外の博覧会に参加することで、古い伝統と深い美的感性をもった国民であることを認めさせることに成功し、西欧の科学技術を学ぶことで発展しようとしている国であることが明らかとなった。

〇東アジア諸国のなかで、西欧の博覧会に参加するのが最も遅かったのが韓国である。コロンブス世界博覧会への参加は、西洋の文化や産物を取り入れようとした国王高宗の積極的な策と関わっていたようだ。

〇19世紀末の韓国は、大きな政情不安に悩まされていた。西洋の博覧会訪問をきっかけに、国際的な動向を改めて認識し、工芸分野に科学技術を取り入れようとした。1907年に京城博覧会が開催され、絵画と彫刻が展示された。出品作のほとんどが日本人によるものだったが、結果として多くの観客が詰めかけた。こうした努力が成果を挙げる前に1910年に韓国は日本に吸収されてしまう。

〇1915年、植民地化された韓国で日本は始政五年記念朝鮮物産共進会を開催する。後に建物の一部が総督府美術館となるが、数年前に景福宮の改修の過程で取り壊された。この共進会は韓国での近代的な美術展の先駆けとなった。さまざまな地方で発見された考古学的な遺物が含まれ、伝統絵画、油彩や彫刻といった新しい西洋風の美術も飾られる。このように共進会は、朝鮮美術展覧会、すなわち1922年に発足する公式の官展の先駆けをなすものであった。

 

 

論文マラソン178 金英那「植民地時代における近代韓国美術序説」

金英那「植民地時代における近代韓国美術序説」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

近代美術の基礎付け―朝鮮王朝末期における西洋文化への関心

植民地時代の美術

初期の開拓者たち

近代美術の形成期

東洋絵画

西洋画

 

〇19世紀後半、西洋美術の思想や表現が韓国に伝わったのは中国を経由してのことだった。韓国から使節として中国に遣わされた少数の知識階級が、カトリックの教会堂、西洋画を目にした。

〇1910年から45年にかけての日本の植民地政策において、美術教育としては個人や小規模なグループによる私塾の美術スタジオであった。韓国で西洋風の美術に着手した最初のグループは、ほとんどが1910年代の東京美術学校で教育を受けた。彼らが帰国して見つけた教職の場は中学校かYMCAだった。その学生たちが増えていくにつれ、韓国のアートシーンを形成していくことになる。

1920年代になると海外から入ってくる文化思潮は増大し、視覚芸術だけではなく音楽、演劇、映画、舞踊においても西洋のアイディアが受け入れられ、一般大衆の間にも大きな関心を呼んだ。

〇韓国における1920~30年代における最も重要な文化活動は「朝鮮美術展覧会(鮮展)」である。日本における文展をモデルとしていた。韓国での美術展は4つの部門、東洋画、西洋画、書、「四君子」からなっていた。それ以前は「書画(書と水墨画」と呼ばれていたものが「東洋画」と改称され、目新しかった審査と授賞制度が導入された。

〇1926年にはこれに特選がつけ加わり、1935年には特選を重ねた者には「推薦」作家という無審査で参加できる枠ができ、さらに2年後には推薦の上に位する「参与」という枠がつくられた。

〇1925年に始まった彫刻部門は西洋画に含まれ、1931年には彫刻と工芸がひとつの部門となった。書というジャンルは排除されることになっていく。審査員は書を除いてすべて日本からやってきて、多くは東京美術学校の教職員だった。

〇西洋画の第一世代は高等学校、YMCA、自分のアトリエで生徒たちを教え、1920年代、30年代には芸術家たちが育ってきた。さらに彼らは学ぶために東京へ向かったが、先生の世代と異なり彼らは私立の学校に入学する傾向があった。20-30年代の韓国美術の傾向は(1)主として人物や裸婦を描くアカデミックな写実主義者、(2)印象派やポスト印象派、またフォーヴ風の風景画を描いたモダニスト、(3)表現主義と抽象芸術のやり方で描いた前衛グループに分けられる。

 

論文マラソン177 中尾拓哉「第2章 名指されない選択の余地」

中尾拓哉「第2章 名指されない選択の余地」(『マルセル・デュシャンとチェス』平凡社、2017年)。

 

デュシャンは1918年9月にブエノスアイレスへと旅する。この地で兄のレーモン・デュシャン=ヴィヨンの訃報を知る。そして、この地でデュシャンはチェスへと情熱を傾けていく。

ブエノスアイレスではチェスを行うほか、チェスの駒も制作する。特に「ナイト」には思い入れがあり、デュシャンの代名詞ともなる。

デュシャンはこの頃から絵画ではなくレディメイドに取り組んでいくが、デュシャンにとっての造形とは「選択」と「配置」によって生み出されるものと説明をする。

〇「選択」と「配置」がキーワードだとすると、レディメイドだけではなく「チェス」もまた選択と配置の繰り返しであるといえよう。ここに、デュシャンの姿勢における芸術とチェスとの連続性を見ることができる。

 

 

論文マラソン176 中尾拓哉「序章 二つのモノグラフの間に」「第1章 絵画からチェスへの移行」

中尾拓哉「序章 二つのモノグラフの間に」「第1章 絵画からチェスへの移行」(『マルセル・デュシャンとチェス』平凡社、2017年)。

 

マルセル・デュシャン1924年に《大ガラス》を未完のままとし、以後はチェスプレイヤーとなり、芸術を放棄したと考えられてきた。

◯本書はチェスと芸術はつながっているものと捉えた論考である。

デュシャンは初期にはタブローを描いている。チェスをモチーフにした作品をとりあげると、セザンヌ的な《チェス・ゲーム》、よりキュビスム的な《チェス・プレイヤー》がある。前者は家族がチェスに親しむ姿であり、後者は兄がモデルである。

◯《チェス・ゲーム》は、画面上部に男性2人、下部に女性2人が描かれ、構図的に《大ガラス》と似ている。一方、1911年の《チェス・プレイヤー》には兄だけが描かれ、同年の《チェス・プレイヤーの肖像》は父である。

◯《チェス・プレイヤー》と《階段を降りる裸体No.2》を同時に描いていたとデュシャンは述べるが、前者は男性、後者は女性を分離して描き、チェスをモチーフにした3点目の作品《急速な裸体たちに囲まれるキングとクイーン》で再び両者は出会う。

◯《急速な〜》以降、デュシャンは直接的にチェスを主題とした絵画は描いていない。《大ガラス》の「男/女」の構図は、この「チェス駒/裸体」の構図から発展させられてゆく。