a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン175 ロザリンド・E・クラウス「第7章 シェリー・レヴィーン―独身者たち」

ロザリンド・E・クラウス「第7章 シェリー・レヴィーン―独身者たち」(訳:井上康彦『独身者たち』平凡社、2018年)。

 

シェリー・レヴィーン(Sherry Levine, 1947-)はアメリカの写真家、画家であり、他の作家の作品の複製品をつくり、発表するアプロプリエイションの手法で注目される作家である。

〇1989年にレヴィーンはデュシャンの 《大ガラス》から部分的要素を取り出して、作品化する。デュシャン効果に付け加えている点として、それぞれ全体からそれぞれを切り離すという「引き算効果」が挙げられる。

〇こうした「引き算」は「欠如」といえる。もうひとつの答えは、パーツである「独身者」は量産品として生み出されるという点だといえるだろう。

 

論文マラソン174 ロザリンド・E・クラウス「第5章 シンディ・シャーマン―アンタイトルド」

ロザリンド・E・クラウス「第5章 シンディ・シャーマン―アンタイトルド」(訳:井上康彦『独身者たち』平凡社、2018年)。

 

フィルムスティル

水平なもの

閃光と反射

名画

嘔吐写真

セックスドールズ

 

シンディ・シャーマン(1954-)の《スティル》という写真シリーズは女に、映画のなかで演じられる女役や、固定化したお決まりの女性の性質に焦点を当て、「ステレオタイプ」として提示する。また現実世界においても女性はこうした役柄を演じなければならないプレッシャーを課せられている点にも焦点を当てている。

〇1980年代には水平のフォーマットを取り入れる。そこに閃光(逆光、散乱光など)のイメージも用いて、新しい「視点」をそこに生み出している。

 

 

 

 

論文マラソン173 ロザリンド・E・クラウス「第4章 エヴァ・ヘス―コンティンジェント」

ロザリンド・E・クラウス「第4章 エヴァ・ヘス―コンティンジェント」(訳:井上康彦『独身者たち』平凡社、2018年)。

 

〇ドイツ出身でアメリカに亡命した画家、彫刻家であるエヴァ・ヘス(1936-1970)。1960年代後半のニューヨークでミニマリズムのアーティストとして活躍する。

〇1960年代のアメリカでは、批評家だけではなくアーティストたちが自ら話し、書いた時代であった。特に『アートフォーラム』誌はその言説を集中的に掲載した媒体であり、エヴァ・ヘスは《コンティンジェント》を引っ提げ、瞬く間に言葉と作品で世に知られた。

〇ヘスの作品は1960年代の美術をめぐる言説である「ミニマリズム」の概念―順列的な配置とモジュール状の反復の概念、網やグリッドを用いることによって生み出される建築的な尺度と枠組の概念に依拠しているといえる。

 

論文マラソン172 ロザリンド・E・クラウス「第3章 アグネス・マーティン―/雲/」

ロザリンド・E・クラウス「第3章 アグネス・マーティン―/雲/」(訳:井上康彦『独身者たち』平凡社、2018年)。

 

〇アグネス・マーティン(1912-2004)の作品解釈は、「抽象的崇高」という定番の理解があった。それはエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起源』と絡めて語るのが顕著な例である。

〇アグネス・マーティンについての優れた研究として、カーシャ・リンヴィルの現象学的なきめ細かい読解が挙げられる。そのポイントは1、近距離からの読解、2、「後退」してみること、3、不透明性であり、作品を距離との関連から丁寧に論じていく。

〇リンヴィルがマーティンの作品を解釈するため3つの距離について論じた時期と、ユベール・ダルミッシュが『雲の理論―絵画史への理論』をまとめていた時期は重なる。『雲の理論』は/雲/というシニフィアンが重要で基礎的な役割を担うシステムによって、ルネサンス絵画とバロック絵画の歴史を書き換えている。

〇すなわち透視図法は、発明当初から建築学に属する要素であり、構造に属する要素と理解されてきた。しかし遍在する空の測量不可能性と雲の分析不可能性は、透視図法の秩序では、根本的には理解できない。絵画における科学への熱望は、つねに無形態なもの、不可知なもの、表象不可能なものによって条件づけられるとして捉えられる。

 

 

論文マラソン171 ロザリンド・E・クラウス「第2章 ルイーズ・ブルジョワー《少女》としての芸術家の肖像」

ロザリンド・E・クラウス「第2章 ルイーズ・ブルジョワー《少女》としての芸術家の肖像」(訳:井上康彦『独身者たち』平凡社、2018年)。

 

〇彫刻家ルイーズ・ブルジョワ(1911-2010)の作品は、フェミニズムに同調し、確かに魅力的な制作を行ってきた。しかしこれまで指摘されてこなかった多くの論理―部分対象、独身装置、アール・ブリュットの虚言癖、「不定形」、欲望機械と深く結びついているとクラウスは説く。

〇例えば一般的に人体の部分のみを対象とした彫刻でいえば「部分像」、つまり胴、手、乳房・・などフォルムの問題、つまり抽象化へと移行する問題として身体は語られてきた。ブルジョワの明らかに性器を象った彫刻ももっぱらフォルムの問題として取り扱われてきた。

〇しかし、モダニズム彫刻は「部分像」ではなく「部分対象」の領域に位置づける読み方もある。精神分析の分野では、部分対象は本能や衝動の目標とされている。つまり抽象的なところはなく、個体同士の人間のつながりではなく、還元的なもの―たとえば乳房に還元された母を指す。

ブルジョワだけではなくブランクーシもまた、作品の幾何学的な純粋性という点だけで語られ、部分対象の視点が欠けていたとクラウスは指摘する。

〇またブルジョワの1940年代後半に手掛けていた絵画やドローイングは、シュルレアリスムを想起させる。アンドレ・ブルトンは分裂症者の作品を推奨し、シュルレアリスム全体に影響を与えていた。ブルジョワの絵画には明らかにその関連を思わせる表現があるが、そうした類似性は語られない。

ブルジョワはまた、1940年代に絵画制作をやめ、彫刻に転向する以前に『彼は完全な静寂のなかに消えていった』という本を出版し、物語とそれに添える銅板画をつけている。物語の筋を作り上げている強迫観念と、調子の機械的な平坦さ、添えた銅版画にみられる梯子など建築的な要素と、デュシャンの独身装置との類似性をクラウスは指摘する。

 

 

論文マラソン170 ロザリンド・E・クラウス「第1章 クロード・カーアンとドラ・マールーイントロダクションとして」

ロザリンド・E・クラウス「第1章 クロード・カーアンとドラ・マールーイントロダクションとして」(訳:井上康彦『独身者たち』平凡社、2018年)。

 

〇様式レベルにおいて、シュルレアリスムは何ももたらなさなかった、内容についての貢献はミソジニーという主題に限定される、と考えられてきた。しかしクラウスは70年代半ば、ジャコメッティの1930年代の一連の水平のゲームボードの模型の上の彫刻オブジェの重要性に気付く。

〇すなわち単なる作品の台座とみなされていたものの中に作品を折り込むことで、彫刻と現実を地続きにし、このオブジェがもつ相互作用の質を強調する点である。

ジャコメッティは活動初期にブルトンに取り上げられる前に、ジョルジュ・バタイユ率いる『ドキュマン』誌周辺のサークル(シュルレアリスムに反旗を翻したグループ)に加わり、そこからアヴァンギャルド芸術家として世に出た。バタイユが『ドキュマン』に載せた「不定形」という語=「格下げ=脱分類化」という考え方にクラウスは強くインスパイアされる。

バタイユの概念「不定形性」「変質」「格下げ」はクラウスがその後取り組む、シュルレアリスム写真の分析に有用であったと彼女は述べる。シュルレアリスムの実践である二重露光、サンドウィッチプリント、モンタージュ、焼き焦がし、ソラリゼーションは、写真の権威の源である「ストレート性」に抗う徹底的な「女性化」の構造を打ち立てたと考えたのである。

〇重要な女性の写真家としてドラ・マールをあげ、ベルメールの人形の写真なども例にあげ、カマキリやメドゥーサの呪い、そしてそれらが持っている去勢不安の負荷の一切を帯びた作品を女性嫌悪的なものとして分類する解釈に異議を唱えた。

〇さらに忘れられた写真家としてクロード・カーアンをあげる。彼女はシュルレアリスムの作家・写真家であり、女優であり、政治活動家であり、レジスタンスの参加者でありけばけばしいレズビアンであった。そしてアイデンティティジェンダーの構築に関わる活動を行い、不安定な主体の状態を探究してきた象徴的な人物としてフェミニストたちに扱われる。

〇カーアンの行った名前の変更はこれまでジェンダーの固定化を宙づりにしようとする彼女の意図と議論されてきた。クラウスはさらに同じく異性装をしたマルセル・デュシャンもあげ、彼らの変名には実はユダヤ性が結び付けられていることをあげる。デュシャンの「ローズ・セラヴィ」の「Selavy」に「Levy」(Cohenに次いでユダヤ人に最も多い名)が織り込まれているのである。さらにこの二人はセルフポートレイトを撮っている共通点もある。

 

 

 

論文マラソン169 桑原規子「アーニー・パイル劇場をめぐる芸術家たち」

桑原規子「アーニー・パイル劇場をめぐる芸術家たち」(『研究紀要』18号、聖徳大学紀要編集委員会編、2007年)。

 

はじめに

1 伊藤熹朔の舞台美術

2 アーニー・パイル劇場の美術展示

3 日米美術家の交流

 

〇アーニー・パイル劇場とは1945年12月に連合国軍が東京宝塚劇場を接収、進駐軍兵士専用の娯楽施設として開館した。ここでは日本人芸術家も携わっている。特に芸術顧問では舞踊家・伊藤道郎、舞台美術家・伊藤熹朔が挙げられる。戦前にアメリカ滞在経験があったことが特徴である。

〇劇場ではいくつかのショーが上演されたが、その一つが日本人ダンシング・チームによるものであった。当然日本の芸術顧問はそこに力を入れる。熹朔はアーニー・パイル劇場だけでなく、その他の演劇の仕事を手掛けて高く評価されているが、アーニー・パイル劇場の仕事は生活の糧として欠かせなかったに違いない。

〇また劇場には図書室が併設され、ここでも展覧会が開かれていた。美術顧問は普門暁。展覧会は福沢一郎、米倉寿仁、恩地孝四郎モダニズム系の作家が選ばれ、劇場の展覧会の方針は日本の古い美術ではなく現代美術を見せることだったと考えられる。

〇劇場では芸能顧問、美術顧問という形で日本人美術家を雇っていた。しかしポスターやリーフレットなど広報関係の印刷物は特にグラフィックデザインに精通した進駐軍将兵に携わらせていた。エルンスト・ハッカー、フランク・シャーマンはこの占領期に日本人美術家と直接交流した人物として知られる。いずれも日本の版画に興味を持ち、恩地孝四郎を中心とする版画家たちとの交流をもっていた。

〇版画という点からシャーマンの存在が重要なのは、彼がアメリカの最新印刷技術であるシルクスクリーンを日本の美術家に伝授したことである。