a curator's memorandum

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論文マラソン178 金英那「植民地時代における近代韓国美術序説」

金英那「植民地時代における近代韓国美術序説」『韓国近代美術の百年』(神林恒道監訳、三元社、2011年)

 

近代美術の基礎付け―朝鮮王朝末期における西洋文化への関心

植民地時代の美術

初期の開拓者たち

近代美術の形成期

東洋絵画

西洋画

 

〇19世紀後半、西洋美術の思想や表現が韓国に伝わったのは中国を経由してのことだった。韓国から使節として中国に遣わされた少数の知識階級が、カトリックの教会堂、西洋画を目にした。

〇1910年から45年にかけての日本の植民地政策において、美術教育としては個人や小規模なグループによる私塾の美術スタジオであった。韓国で西洋風の美術に着手した最初のグループは、ほとんどが1910年代の東京美術学校で教育を受けた。彼らが帰国して見つけた教職の場は中学校かYMCAだった。その学生たちが増えていくにつれ、韓国のアートシーンを形成していくことになる。

1920年代になると海外から入ってくる文化思潮は増大し、視覚芸術だけではなく音楽、演劇、映画、舞踊においても西洋のアイディアが受け入れられ、一般大衆の間にも大きな関心を呼んだ。

〇韓国における1920~30年代における最も重要な文化活動は「朝鮮美術展覧会(鮮展)」である。日本における文展をモデルとしていた。韓国での美術展は4つの部門、東洋画、西洋画、書、「四君子」からなっていた。それ以前は「書画(書と水墨画」と呼ばれていたものが「東洋画」と改称され、目新しかった審査と授賞制度が導入された。

〇1926年にはこれに特選がつけ加わり、1935年には特選を重ねた者には「推薦」作家という無審査で参加できる枠ができ、さらに2年後には推薦の上に位する「参与」という枠がつくられた。

〇1925年に始まった彫刻部門は西洋画に含まれ、1931年には彫刻と工芸がひとつの部門となった。書というジャンルは排除されることになっていく。審査員は書を除いてすべて日本からやってきて、多くは東京美術学校の教職員だった。

〇西洋画の第一世代は高等学校、YMCA、自分のアトリエで生徒たちを教え、1920年代、30年代には芸術家たちが育ってきた。さらに彼らは学ぶために東京へ向かったが、先生の世代と異なり彼らは私立の学校に入学する傾向があった。20-30年代の韓国美術の傾向は(1)主として人物や裸婦を描くアカデミックな写実主義者、(2)印象派やポスト印象派、またフォーヴ風の風景画を描いたモダニスト、(3)表現主義と抽象芸術のやり方で描いた前衛グループに分けられる。