論文マラソン96 飯尾由貴子「岸田劉生の日本画について」
飯尾由貴子「岸田劉生の日本画について」(『木村定三コレクション研究研究』愛知県美術館、2009年度)。
1. 劉生と南画
2. 木村コレクションにおける岸田劉生
3. 大正期における南画
1)南画の復興―新南画をめぐって
4. 劉生の南画観、東洋画観
5. おわりに
〇木村定三氏のコレクションは岸田劉生の日本画が8点含まれている。画業の後半期には少なからぬ数の日本画を描いた。
〇劉生が日本画を描き始めたのは1920(大正9)年7月7日、30歳の誕生日を迎えて間もなくであった。前日に画材を購入し、鏑木清方に日本画を習っていた妻に絵具の溶き方などを教わり、麗子立像や四人麗子像などを描いた。
〇きっかけとしては自分の個展が1919年に京都に巡回した際に、土田麦僊の友人・榊原紫峰の家で伝呂紀の花鳥画を見せられたこと、また1920年に友人のバーナード・リーチが中国から帰ってきたときの土産話だと劉生は述べている。
◯劉生が日本画を描きはじめた大正時代は南画の復興期にあたる。南画の理念は中国文人画の理念を根本とし、最も重視されるのは気韻生動という考え方である。すなわち描かれた一点は画家の人格の反映であり、作品は内なる天分の表出である。
◯もう一つの重要な要素は自娯である。文人画は職業ではなく余技として描かれるため、自由な精神で楽しんで描く境地が求められた。
◯南画に新たな光が当たった明治末期から大正には写生に基づき、瑞々しく詩的感情を表現した今村紫紅、横山大観ら日本美術院の新進日本画家らの絵画を新南画と呼んだ。重要な点は彼らは西洋美術を学ぶ過程で南画を発見したのである。
◯また大正期には洋画家が本格的に日本画を手がけた。その代表的な画家は萬鉄五郎、劉生、小杉放庵、森田恒友である。
◯萬もほかの洋画家と同様に、西洋美術の写実、それを超える厳格な造形思想と対決を経て、南画に至った。
◯劉生の残した多くの著述から、彼にとって西洋と東洋の美は相反するものではなく、東洋の美はさらに深く入ったところにあるので、観る側の美感によって立ち現れるものである。
◯劉生は同時代の南画復興には批判的な目を向けており、自身の実践においては独自の見識と感受性が働いていたといえよう。