a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン83 小泉淳一「中原實に於けるシュルレアリスムへの軌跡」

小泉淳一「中原実に於けるシュルレアリスムへの軌跡」(『茨城県近代美術館研究紀要』(1)、1991年)。

 

はじめに

1 フランスかドイツか、中原實の滞欧体験

2 中原實のダダ、村山知義のダダ

3 シュルレアリスムへの接近

4 詩人北園克衛との邂逅

5 テオリサカナ

あとがきに換えて―残された課題

 

〇画家・中原實(1893~1990)は大正期新興美術の代表作家の一人と評価されているが、昭和期のシュルレアリスム時代の活動を位置づけていく。

〇中原の大正期新興美術の活動を跡付けていくにあたり、村山知義と比較していく。村山の主張する「意識的構成主義」が実はクルト・シュヴィッタースのメルツ絵画が下敷きになっていることは多くの人が語るところであり、そこに彼が求めたものは「ダダ的な攻撃的批判精神」であった。

〇対して中原の主張はどうだったかというと「科学」に尽きる。アインシュタインの光量子仮説と波動説との対立を踏まえたり、当時の最先端の情報に裏付けられた「科学主義」であった。こうした志向からアトミックのシリーズへと直結していく。

〇三科の解散後、村山はあっさり「意識的構成主義」を清算し、日本プロレタリア文芸連盟の創立に参加、共産主義へと旋回してゆく。わずかなダダとのつながりは断ち切られる。

〇中原は大正15年単位三科を結成するも、約1年で活動は終わる。しかし第1回単位三科に出品した《星群と女性》は宇宙を背景にした裸婦像で、中原の新たな展開が示される。中原と新興美術運動との関係は昭和2年で断絶するが、活動が途切れたわけではない。

〇単位三科の瓦解後、中原は帝展系の作家たちによって結成された「第一美術協会」で昭和4年から出品する。この年は第16回二科展で、古賀春江東郷青児阿部金剛らがシュルレアリスムを意識した作品を発表し、センセーションを起こしている。

〇二科が評判となり、シュルレアリスムは大きく取り上げられるようになる。一方、中原の作品は「アトミックシリーズ」から展開し、《銀河の沐浴》に見られるような宇宙と裸婦との組み合わせ、すなわちデペエズマンによる手法を取り入れる。中原はシュルレアリスムに典型的な方法論を知らなかったが、こうした作風にたどり着く。

〇後に親友となる詩人・北園克衛と中原は昭和3年頃に親しくなる。北園は日本の詩壇におけるシュルレアリスムの最初の紹介者であり、彼を通じて得た新知識や刺激が、中原の再出発を援護するものであると小泉は述べる。具体的に《魚の説》をとりあげ、中原のテキストと共に分析を試みる。