a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン84 北園克衛「G・G・P・GからVOUまで」

北園克衛「G・G・P・GからVOUまで」(『本の手帖』3巻3号、1963年)。

 

〇詩人・北園克衛(1902~1978)による1920~30年代に自らが関わって発行した美術、文学に関連する諸雑誌の発刊の経緯や人間関係の覚書である。

〇タイトルにある「G・G・P・G」は「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」。野川孟というジャーナリストの弟・隆が創刊(1924年)している。北園の住んでいた洋館の1階に孟は住んでいたそうだ。G・G・P・Gの出資者は日本画家の玉村方久斗である。

〇玉村はこれまでにも美術雑誌「高原」を発行、続いて「エポック」を創刊。「エポック」は表現派や立体派や未来派の作品や評論を紹介していた。孟に紹介されて北園は玉村に会い、G・G・P・Gの2号からの編集を引き受ける。このとき数名の詩人が参加して、散文から詩の雑誌へと変わった。

村山知義の「MAVO」はそれより少し遅くに創刊。村山らは造形芸術によるマニフェステイションが目的であるようだったと北園は述べる。

〇G・G・P・Gの編集は4号あたりから再び隆と北園の共同編集となった。また寄稿を求められMAVOにも掲載されたが、運動に参加したわけではない。

〇G・G・P・GもMAVOもほとんど前後して廃刊。その1926年頃、北園は「文芸耽美」にカットを描き、短編小説や詩を寄稿。そして上田敏雄、上田保がシュルレアリストの詩論や作品を紹介した。しかし北園と上田兄弟の交流はそれより前の「人間」という文学雑誌に書いた北園の短編を、敏雄が読んで感想を送ったところから始まったそうである。

〇1927年に、前年に村山知義らが結成した三科は消滅したが、単位三科が結成された。北園は参加し、全部自作自演の前衛劇とバレエ「劇場の三科」を開催した。大阪での再上演の際に火事となり、運動は消えた。

〇同年1927年に富士原清一と山田一彦が訪ねてきて新しい雑誌を出す相談にきた。北園は「文芸耽美」に寄稿していた上田兄弟に参加してもらい、誌名を「薔薇・魔術・学説」とした。印刷の費用は富士原が負担した。日本において最初のシュルレアリストの雑誌はこれが最初のものだが、フランスの作品とは違っていた。

〇同年暮れに西脇順三郎、三浦孝之助たち6人の同人が「馥郁タル火夫ヨ」というアンソロジイ刊行。

〇1928年2月「薔薇・魔術・学説」は第4冊を発行して廃刊。そして馥郁組と合同して超現実主義機関誌「衣装の太陽」を創刊。編集は北園と上田敏雄。また同年に、春山行夫編集の「詩と詩論」が創刊される。

〇1930年にこの「詩と詩論」メンバーが分裂し、北川冬彦、神原泰たちが脱退して「詩・現実」を創刊。

〇その後も様々な雑誌の創刊、廃刊が繰り返されるが北園は岩本修蔵と「進行する銅像」という詩の雑誌を始めるが間もなく「白紙」と改題。さらに「MADAME BLANCHE」と改題。メンバーは40人を超えていた。これも1935年には廃刊して新しく「VOU」を創刊。

〇VOUは前衛的な作曲家、建築家、写真家、工芸家を加えて総合的な芸術運動の可能性をもつようになった。1940年ファシズムの圧迫を受けて「新技術」と改題し4冊を発行。さらに太平洋戦争が拡大しVOUクラブの運動を中止。