a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン44 高松次郎「“不在体”のために」

高松次郎「“不在体”のために」(『形象』第8号、形象社、1963年5月。『世界拡大計画』水声社、2003年に再録)。

 

今回は論文ではなく、美術家・高松次郎(1936-1998)が初めて発表した文章であり、60年代のキーワードでもある「不在」が初めて使用されたテキストである。

光田由里の『高松次郎 言葉ともの 日本の現代美術1961-72』(水声社、2011年)の解釈を手がかりに読んでいった。

高松のテキストが掲載された『形象』のページには、読売アンデパンダン展のときの、東京都美術館正面階段を這う《紐》の写真が飾られている。(実際のタイトルは《カーテンに関する反実在性について》1963年、紐だが「絵画」コーナーに展示されていた)。

結局すべてのものごとは我々の前でいつもヒビ割れ、崩れ、砕け、粉々になり、混り、溶け、あるいは癒着し合い、融解していき、それ自身で我々に"充全性"をもたらしてくれることはなく、我々の状況をひとくちにいうなら、それはすべてのものごとが無意味に投げ出され、ところ狭しと山積された広大なガラクタ置場なのだが、〔‥‥‥〕。

日々の現実は「充全性」をもたらすことはなく、広大なガラクタ置場であると述べ、

ものごとそのものをより未分化の状態に還元したいということであり、それはものごとの<求心性>の核をそれ以上分割することができないエッセンスとしての"素粒子"をつきとめることなのであるが、しかしものごとの分裂は限りなく、その"素粒子"はいつも求心的な方向性のはるか遠方の薄明の中にしかなく〔‥‥‥〕。

ものごと=現実のエッセンスとしての「素粒子」と表現しているのは、現実ではない「理想」のような求めている状態と読み取れる。

つまり二つの実在の形態があり、一つは手に触れえるような物質的実在であり、他の一つは内面的、想像的な非物質的実在であるが、更にそれらに対してそれぞれに反実在的な蓋然性を考えることができ、〔‥‥‥〕。

ここで述べた「反実在的な蓋然性」を、この後の文章で「反実在的な不在性」と書いている。この「不在性」とは、高松が現実にはないけれども求めていること、であり自分の制作の目指すコンセプトとして読める。

さらにこの文章の発表直後、高松次郎らハイ・レッド・センターは三人展「第五次ミキサー計画」を開催し、高松は各種のロープを壁に掛けまわし、衣服や机などの日用品に巻き付けて展示を行う。

また中原佑介がこの「不在」に触発されて、「不在の部屋」展を企画している。