a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン6 二階堂充「宮川香山 陶磁器にかけた生涯とその事績」

本日の論文は二階堂充「宮川香山 陶磁器にかけた生涯とその事績」(『-世界を魅了したマクズ・ウェア-真葛 宮川香山展』図録、横浜美術館、2001年)。

 

宮川香山とは

真葛焼とは

横浜への移住

輸出用陶磁器業の中で

陶業不振と磁器への転身

盛期の真葛焼

陶芸界での活動

晩年の香山の人となり

香山以後の真葛焼

おわりに

 

宮川香山(1842-1916)とは京都に生まれ、東京に没し、その名は明治を通じて当時最も著名な陶芸家であった。そして宮川香山といえば「真葛焼」そのものを指している。

横浜で創業した真葛焼第二次世界大戦末期の横浜大空襲によって甚大な被害を被り、実質的に製造は途絶える。

真葛焼はある時期までは欧米に輸出されるための陶器であり、ある時期以降は中国の清朝に範をとった磁器である。あるときは万国博覧会に出品する美術品であり、他方では日用雑器でもある非常に幅の広いあり方であった。

 

19歳で家督を継ぐことになった香山は、薩摩藩関係者の招きで横浜へ移住。それは「薩摩焼」を輸出するために港のある横浜で製造するという思惑であった。誘いにのった香山は横浜で創業し、薩摩焼風陶器の製造を開始する。

次第に独自性を出す必要性を感じ、初期真葛焼に特徴的な彫刻的な意匠を施すようになり、輸出も奮った。国内外から高く評価されるようになるが明治15年頃より松方デフレ政策による景気不況のあおりを受け、製造縮小、新製品に取り組み始める。

そこで当時、中国の清朝で高度に達成していた釉下彩、窯変釉、単色釉などに目を向け、磁器製造に転換する。

新たな研究が実を結び、香山は磁器でも成功を収める。名声が最高潮に達したのは明治33年のパリ万博への出品、農商務省と皇室からの下命を受けた大作は大賞を受賞する。

こうした事績や真葛焼の流れを振り返ると、香山の源泉には京都が常にみえる。また、富国強兵、殖産興業を国家の目標とした明治時代と切っても切り離せないだろう。