a curator's memorandum

1日1本論文を読んでメモする、論文マラソンをやっています。

論文マラソン47 千田敬一「日本の近代彫刻とロダン」

千田敬一「日本の近代彫刻とロダン」(『ロダンと日本』展図録、静岡県立美術館/愛知県立美術館、2001年)。

 

はじめに

ロダンと日本

日本におけるロダンの受容

ロダンに影響を受けた日本作家とその考察

まとめ

 

ロダン以前の洋風彫刻の日本への導入は政府主導型(工部美術学校)であり、1882年に廃止。その後、帰国した高村光太郎荻原守衛ロダンの理論をもたらす。唐突だったが、その急激な変化に対応できたのは江戸期までの伝統彫刻が下地になっていたから。

ロダンの精神と目は荻原を通じて、戸張弧雁、中原悌二郎らの表現に「もの」を見る目と思想の骨格として受け継がれる。

〇荻原と前後してパリでロダンの彫刻を見たと思われる日本の彫刻家は、本保義太郎、沼田一雅、新海竹太郎、北村四海、白井雨山、稲垣吉蔵、武石弘三郎、藤川勇造など。

ロダン導入初期の人々は、まずロダン芸術を自然から学ぶ姿勢を含めて丸ごと造形思念、造形技術などの面から受け入れようとした荻原、高村、中原、戸張のようなグループと、技術を最優先しロダンから一歩離れて形態から必要な要素を取り入れようとした本保、藤川、堀進二、藤井浩祐、朝倉文夫北村西望らのグループに大別できる。

〇上記のような区分は、彫刻家としてどう生きていくかの選択に関わっていたと千田は述べる。当時の近代日本の彫刻の需要の大半は銅像であり、その制作資格を社会に示す最高の方法は文展で優位にたつことで生活と直結していた。その人間関係優先の閉鎖的社会で指導的立場を得るためには、それを最優先せざるを得なかった。