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論文マラソン43 小林純子「「日本画」を纏う工芸―東京絵付と明治前期の応用美術政策」

小林純子「「日本画」を纏う工芸―東京絵付と明治前期の応用美術政策」(『東京都江戸東京博物館研究報告』第2号、1997年)。

 

はじめに

1 東京絵付の系譜

 (1)東京薩摩 (2)ウィーン万国博覧会事務局附属磁器製造所 (3)瓢池園

2 明治前期の勧業政策

 (1)観商局長河瀬秀治の勧業理念 (2)製品画図掛 (3)竜池会の発会と目的

3 応用美術論による美術政策

 (1)絵画の勧奨 (2)絵画と工芸技法 (3)応用美術政策と国民美術の創出

 

〇良質な陶土を産出しない東京で、「東京絵付」という陶磁器の絵付けのみを行う産業が盛んになったのは、開港場の横浜に近いだけでなく、政府の実験場である首都だったからである。

明治維新前後から薩摩焼、中でも白陶土に罅釉(ひびゆう)を施し、金銀五彩で上絵付けした薩摩錦手が欧米向け輸出品として需要が高まり、絵付けのみを東京で行う「東京薩摩」が隆盛する。

〇明治6(1873)年のウィーン万国博覧会のために政府が特設した「博覧会事務局附属磁器製造所」に陶画工が集められ、本格的に陶画製作が行われる。

〇博覧会が終わると製造所は閉鎖されるが、官職にあった河原徳立は自ら工場を設立、「瓢池園」と名付け、製造所の陶画工を雇い入れ「東京絵付」の中心地になってゆく。また工芸品の製造・輸出をしていた起立工商会社も同様に製造所の陶画工を雇い入れた。

明治20年代、本来の陶磁器産地で学校や研究所が建設され、同業者組合や協会が結成されると、東京の陶画産業はその存在意義をなくしていくが、それに至るまで瓢池園は常に政府の美術政策に忠実であった。

〇明治前期、内務省勧商局に設けられた製品画図掛は、工芸品の図案を製作し製造業者に配布するという具体的な行政指導を行った。この製品画図掛に所属していた技術系官僚の研究会が、のちに日本初の美術団体である竜池会に発展した。

〇彼らは内務省が始めた観古美術会の開催事業を肩代わりしたり、講演会や機関誌を通じて海外の美術事情や美術工業論を紹介するなど、政府の政策の欠を補い、啓蒙と誘導に努めた。

〇また竜池会の会員は、美術工芸によって日本を富強しようとする一種の美術立国構想をもっていた。それは欧米でのジャポニズムの興隆により、日本の美術工芸が世界で通用する手ごたえを得ていたからである。

〇その理念は、イギリスを中心に盛んだった、美術を工業製品に応用するという応用美術の理論であった。日本の応用美術政策の特徴の一つに、きわめて絵画的な装飾を施した工芸、すなわち瓢池園の「東京絵付」のような作品が多く生み出された。

〇さらに純粋美術の勧奨がすすんで行われるようになる。伝統絵画で器を飾るため、濤川惣介の無線七宝が生まれる。染織においても写し友禅の開発が行われる。